『受験知識に教えられること−藺相如−』

 英雄の出てこない歴史はつまらない。」とは、谷沢永一関西大学名誉教授の言である。これは網野善彦氏に代表される民衆史に対する批判として述べられている。学生時代、最初に買ったハードカバーの本が、網野善彦氏の『無縁・公界・楽』であったぼくとしては、民衆史や社会史の意義と問題点について、自分なりに思うところもある。
 しかし単純に考えても、いわゆる英雄の生き方に学ぶところは大いにあるし、これが歴史を勉強する魅力の一つであることは否定できないと思う。

 そして、「自分も、この人のような考え方、生き方をしたい」と思う人物は、年齢や置かれている立場によって変化することを、最近つくづく感じる。

 ちなみに今、ぼくが一番憧れている人物は、藺相如(りんしょうじょ)である。

   藺相如は、生没年不詳だが、の恵文王何(けいぶんおうか。在位紀元前299〜266年)に仕えたのだから、紀元前3世紀の人である。
 初めて藺相如を知ったのは、高校時代であった。しかし当時、自分の身長が余り高くないことにコンプレックスを感じていたぼくは、晏嬰
(あんえい。俗に晏子と称される。紀元前500年ごろの斉の宰相。極めて小柄な人物であった。あの司馬遷をして、「同時代に生きられるのなら、彼の御者になりたい」と言わしめた。)熱烈なファンであり、それ故、名宰相として晏嬰と並び称される「管仲が嫌い」という屈折した有り様であった。(もっとも、清廉潔白であった晏嬰に対して管仲は私を貪る面もあり、それも管仲が嫌いな理由ではあった。)ましてや藺相如の話は知っていても、単なる知識の一つに過ぎなかった。

 ところが、その彼が今になって輝いて見える。

 藺相如が当時のの宝(もともとはの宝)であった『和氏の璧』(かしのへき)を、(時の秦の昭王は始皇帝の曾祖父)から守り抜いたことが、『完璧』(完璧而帰。璧をまっとうして帰る)という言葉の由来になっていることは有名である。

趙恵文王嘗得楚和氏璧。秦昭王請以十五城易之。欲不與、畏秦強、欲與、恐見欺。藺相如願奉璧征。城不入則臣請完璧而帰。既至。秦王無意償城。相如乃紿取璧。怒髪指冠、立柱下曰く、臣頭與璧倶碎。遣従者懐璧、間行先帰、身待命於秦。秦昭王賢而帰之。』(『十八史略』)

 趙の恵文王が、楚の宝であった『和氏の璧』を手に入れた。紀元前284年。秦の昭王は15の城と交換したいと言ってきた。与えなければ強国の秦が攻めてくる恐れが有り、与えれば、そのままだまし取られる恐れがあった。藺相如は璧を持って秦へ行くことを願い、城が手に入らなければ、璧を守って帰ることを申し出た。相如は秦についた。(美妃に『和氏の璧』を見せびらかすなど、)秦王に城を与える気がないことを見て取った相如は、(言葉巧みに)璧を取り戻すと、怒髪天をつく形相で柱の下に立ち、「(秦がこのような無礼な振る舞いをするのであれば)私の頭とともにこの璧はくだけ散ることになろう。」と迫った。(そして秦王に5日間の潔斎をさせて時間を稼いでいる間に、)密かに従者に璧を持たせて先に帰らせ、自らは秦に命運を委ねた。秦の昭王は賢明な人物であったので、(ここで相如を殺せば、『和氏の璧』も手に入れず、名誉まで失われることを考え)相如を趙に帰らせた。なお、文中の怒髪指冠の部分も「怒髪天をつく」の語源となっている。

 そしてこの『完璧』以上に有名なのがだが、国語の教科書にも載っている『刎頸之交(ふんけいのまじわり)であろう。

趙王帰、以相如為上卿。在廉頗右頗曰、「我為趙将、有攻城野戦之功。相如素賤人。徒以口舌居我上。吾羞為之下。我 見相如、必辱之。」
 相如聞之、毎朝常称病、不欲与争列。出望見、輒引車避匿。其舎人皆以為恥。
 相如曰、「夫以秦之威、相如廷叱之、辱其群臣。相如雖駑、独畏廉将軍哉。顧念強秦不敢加兵於趙者、徒以吾両人在也。
 今両虎共闘其勢不佝生。吾所以為此者、
先国家之急、而後私讐也。」
 頗聞之、肉袒負荊詣門謝罪、遂為
刎頸之交
』(『十八史略』)

 (紀元前279年。藺相如の活躍によって、秦王の屈辱的な要求から趙王の名誉を守り、逆に秦王を辱めた「澠池(めんち)の会盟」から)趙王は帰り、藺相如を上卿(宰相)にした。これに対し、廉頗(れんぱ)将軍は周りの者たちに言った。「わしは趙の将軍として、城を攻め、戦いで多大な功績を上げてきた。藺相如はもとは下賤の出ではないか。(藺相如はもとは宦官の食客であった。)それなのに口先だけでわしより上の位にいる。わしが奴の下とは何たる屈辱。奴に会ったら必ず辱めてやる。」
 これを聞いた藺相如は、いつも病気と称して朝廷に出ず、序列の争いを避けた。外出の際に廉頗将軍を見れば、すぐに自分が乗った車を引かせて隠れる有り様であった。彼の家臣は皆、これを恥だと考えた。
 藺相如は言った。「秦は強いとは言っても、私はその秦の宮廷で秦王を叱りつけ、その家臣たちを辱めたのである。この藺相如、役立たずと言えども、どうして廉頗将軍一人を恐れたりしようか。強国である秦が、あえて弱い趙の国に兵を進めないのは、自分と廉頗将軍の二人がいるからではないか。それなのに今、両虎(自分と廉頗将軍)が戦えば、両方とも無事ではすまない。それゆえ私はこのような振る舞いをしているのだ。国家の危機に比べれば、個人の屈辱や恨みなど問題ではない。」
 廉頗将軍はこれを伝え聞き、上半身を脱いでイバラの笞を背負い、藺相如の門(宰相府の門)へ出向いて、(これまでの無礼に対して、このイバラの笞で存分に罰してくれと)謝罪した。ここに二人は、「互いのためなら首をはねられようとも悔いはない」という交わりを結んだ。

 10年後、ぼくがやはり藺相如に惹かれているかどうかは分からない。それはきっと、その時自分が置かれている状況によるだろう。
 しかし、受験のために学んだ知識に、20年もたってから教えられることもある。だからこそ歴史を学ぶことはおもしろい!

2003.7.19   

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