2018年度 『筑波大学 その3』


ヒュースケンの日記から見る日米交渉


次の各問について,それぞれ400宇以内で解答せよ。

V 次の史料は,アメリカの日本総領事タウンゼント・ハリスの通訳を務めたヘンリー・ヒュースケンの1855年から1861年までの日記のなかの,日米の外交交渉を記した部分である。史料をよく読み,下線部(ア)(イ)について説明しながら,それらと関わり(ウ)が幕末のどのような状況をさすのか論述せよ。解答文中,これらの語句・文章を説明した部分には下線を付せ。ただし,説明の順序は自由とする。

 一八五七年六月十七日〔安政四年五月二十六日〕

 十ヵ月の忍耐ののち,ようやく総領事は下田奉行に協定に署名させることに成功した。(略)
 第二条は,「合衆国の市民に下田と箱館に(ア)永住する権利を与え,アメリカの政府は箱館に副領事を送ることができる。この条項は一八五八年七月四日から発効する」。
 永住権の確立は,(イ)通商条約を半ば成立させたことになり,アメリカ市民は誰でもその権利を行使できるので,アメリカ人宣教師が日本に到着するのもそう遠い将来ではない。日本人はそれを予期していないだろうが,しかしその時になれば宣教師も商人や船長と同様,やはり一人の市民であると説明されるだろう。いままで日本から締め出されていた婦人も,この権利を行使できるだろう。しかし日本側の全権は条約(この条約は(ウ)彼らに無数の災厄をもたらすであろうが)にこに署名してしまったので,この条約を批准せずにおかないかぎり,それに反対することができないだろう。
 大成功!

 (岩波文庫 青449−1 青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』なお,表記を一部改めている。)



  『詳説日本史』の抜粋で作成しました。

<野澤の解答例>
 日米和親条約に基づき総領事として来日したハリスは、通商条約の締結を強く求めた。下田と箱館という開港場に居留地を設けること日本に認めさせたことは、通商を行う場所を得たことを意味した。その後締結された日米通商航海条約は、領事裁判権を認め、関税自主権が欠如した不平等条約であった。居留地で自由貿易が開始された当初は、大幅な輸出超過となり、物価が上昇する一方で、安価な綿織物の大量輸入は農村で発達していた綿織物業を圧迫した。また、金銀比価の相違のため大量の金貨が海外に流出したことで、品質を大幅に引き下げる貨幣改鋳が行われたため、物価上昇に拍車がかかり、庶民の生活が圧迫された。幕府は五品江戸回送令を発したが、在郷商人や列国の反対で効果は上がらず、貿易に対する反感が高まり、激しい攘夷運動がおこる一因になった。物価上昇や抗争は社会不安を増大させ、世直し一揆や打ちこわしが起こり、政治権力への不信が表面化した。(400字)


2020.11.7

 
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