2018年度 『筑波大学 その2』


鎌倉時代後期の幕府政治の推移


次の各問について,それぞれ400宇以内で解答せよ。

U 鎌倉時代後期における幕府政治の推移について,次の(ア)〜(エ)の語句を用いて論述せよ。解答文中,これらの語句には下線を付せ。ただし,語句使用の順序は自由とする。

(ア) 両統迭立   (イ) 安達泰盛   (ウ) 得宗   (エ) 永仁の徳政令


 これは、ちょっと解釈に迷った人がいたのではないか。鎌倉時代後期とは、いつのことか。前期・後期なら、時頼ころ以降。前期・中期・後期なら蒙古襲来以降となる。
 しかし、鎌倉時代の幕府政治の推移といえば、

頼朝の将軍親裁→(頼家・実朝も、頼朝の時以上に有力御家人の補佐が入るが、実質は将軍親裁)→3代泰時の時、有力御家人による集団指導体制→5代時頼の時、得宗の勢力強大→9代貞時の時、得宗専制→皇室の皇位継承に巻き込まれて、両統迭立→それを打破するために後醍醐天皇による討幕

だろう。ぼくとしては、時頼の時に得宗の勢力が強大になったことから述べるためには、必然的にその前段階である本来の合議制による集団指導体制に触れることになるから、ここからだと判断した。


  『詳説日本史』の抜粋で作成しました。

<野澤の解答例>
 鎌倉幕府の執権政治は、本来合議制に基づくものであったが、次第に北条氏独裁の性格を強めていった。蒙古襲来によって幕府の支配権が全国的に強化されていく中で、北条氏の家督をつぐ得宗の勢力が強大となった。それとともに御内人と御家人との対立が激しくなり、内管領平頼綱に有力御家人の安達泰盛が滅ぼされる霜月騒動が起こった。9代執権北条貞時は幕府の全権を握り、得宗専制政治となった。一方、御家人たちは分割相続による所領の細分化や貨幣経済の発展、さらに蒙古襲来での負担によって窮乏していた。幕府は救済のために永仁の徳政令を発布したが、効果は一時的であり、幕府への不満をつのらせていった。同じころ皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、皇位継承などで争い、優位な地位を得ようと幕府に働きかけた。幕府はたびたび調整を行い、両統迭立をとるようになったが、大覚寺統から即位した後醍醐天皇はこれを不満として、倒幕を図るようになった。(400字)


2020.11.7

 
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