2017年度 『筑波大学 その3』


18〜19世紀の地理認識の発展と政治・社会の関わり


次の各問について,それぞれ400字以内で解答せよ。

V 18〜19世紀の地理認識の発達と政治や社会との関わりについて,次の(ア)〜(エ)の語句を用いて論述せよ。解答文中,これらの語句には下線を付せ。ただし,語句使用の順序は自由とする。

(ア) 鳴滝塾   (イ) 伊能忠敬   (ウ) 『三国通覧図説』   (エ) ラクスマン


 これは、求められていることがイメージできなかった人がかなりいるのではないかと思う。ぼく自身、「地理認識の発達」という言葉の解釈に戸惑っている。しかも、18世紀〜19世紀という範囲であれば、第一回帝国議会に山県有朋首相が「主権線としての国境、利益線としての朝鮮」という認識を示したのも、日清戦争に勝利して台湾を領有したのも19世紀である。
 しかし、指示語は江戸時代のもののみである。
 そこで、これは江戸時代に限定して、18世紀以降の人々の日本の地理感覚の変化と政治・社会との関係について述べることにした。



  『詳説日本史』の抜粋で作成しました。

<野澤の解答例>
 18 世紀の初めに西川如見や新井白石が世界の地理・物産・民俗を説いたことが先駆けとなった。18世紀末に外国船が接近するようになると、林子平は『三国通覧図説』や『海国兵談』を著して海防を唱えた。幕府はこれを弾圧したが、ラクスマンが根室に来航すると、江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じるとともに、最上徳内らに択捉島や千島列島の探査を行わせ、伊能忠敬に蝦夷地など全国の沿岸の測量を命じ、精密な地図を作成させた。一方、ラクスマンが送り届けた大黒屋光太夫の見聞は、蘭学者たちに西洋に関する知識を与えた。幕府は天文方に蛮書和解御用を設けて洋書の翻訳を行い、実学の吸収に取り組んだが、鎖国体制を維持するために、鳴滝塾を開いて高野長英らの人材を育成していたシーボルトを国外追放とし、幕府の外交政策を批判した蘭学者たちを蛮社の獄で弾圧するなど、洋学の規制も行った。そのため地理などの洋学は、政治運動には結びつかなかった。(400字)


2020.11.12

 
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