2016年度 『筑波大学 その3』


17世紀中期から18世紀の産業の変化と社会への影響


次の各問について,それぞれ400字以内で解答せよ。

V 17世紀中期から18世紀を通じての産業の変化と社会への影響について,次の(ア)〜(エ〉の語句を用いて論述せよ。解答文中,これらの語句には下線を付せ。ただし,語句使用の順序は自由とする。

(ア) 刈敷  (イ) 地引網  (ウ) 場所請負制  (エ) 田畑勝手作りの禁


 これを見た時、(ウ)の場所請負制が浮いていると感じた人が多かったのではないでしょうか。

 筋道としては
1 江戸幕府は、本百姓体制を維持し、年貢の徴収を確実にするため、田畑勝手作りの禁を出すなど商品作物を自由に栽培することを禁止していた。
2 しかし、大坂近郊の賢い百姓などは、高く売れる木綿を作って大坂で売って、そのカネで、「天下の台所」と言われるように米が集積される大坂で、安い米を買って帰って、その米を年貢として納める。
 木綿栽培には問題があって、土地が痩せる。そこで従来の刈敷などの肥料よりも高品質な金肥を買って、それを畑に用いて木綿をつくる。この方法に気付いた百姓は豊かになっていき、貨幣経済の浸透により百姓の階層分化が進み、村方騒動が起こる要因になった。
3 この金肥とは具体的に何かというと、干鰯・油粕・〆粕である。干鰯は九十九里浜の地引網漁でとられるし、〆粕の原料となる鰊は蝦夷地が代表的産地である。これらの金肥は、西廻り・東廻り海運などの発達した流通網によって、各地に運ばれた。

 ここまでは、指示語を繋げば、比較的容易に組み立てられると思います。しかし、場所請負制の収まり所がしっくりこない。

 
正直言って、ぼくもわかりませんでした!

 
そこで、「干鰯→鰯→九十九里浜→地引網→流通網の発展→各地へ」と同じ流れで「〆粕→鰊→蝦夷地→アイヌ→場所請負制」で答案を作成しました。

 なお、当初は「中世以来の刈敷より高品質な金肥が発達」という形で答案を作成しようと考えたのですが、「教科書の記述をもとに書く」というぼく個人のポリシーにそって、『詳説日本史』に記されている「耕地の開発が進み刈敷が不足する中で」を使って、解答例を作成しました。


  『詳説日本史』の抜粋で作成しました。

<野澤の解答例>
 幕府は本百姓体制を維持し、年貢を確実に徴収するため、田畑勝手作りの禁を出すなど商品作物を自由に栽培することを禁止していた。しかし、17世紀後半以降の生産力の発展は著しく、全国を結ぶ交通網が整えられ、一般農民も商品作物を生産して貨幣を得る機会が増大した。耕地の開発が進み刈敷が不足する中で、綿などの商品作物生産が発達した所では、遠隔地からの干鰯・〆粕・油粕などの金肥が普及した。漁法の改良と沿岸部の漁場の開発が進み、九十九里浜で地引網漁によって取られた鰯や、松前の鰊は干鰯や〆粕に加工され、東・西廻り海運などを就航する廻船を利用して各地に出荷された。貨幣経済の浸透により百姓の階層分化が進み、村方騒動の要因となった。鰊の産地であった蝦夷地では、アイヌとの交易独占権を持つ松前藩が、商場での交易権を家臣に与えて主従関係を結んでいたが、やがて場所請負制となり、アイヌの多くは和人商人に使役されるようになった。(400字)


2020.11.14

 
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