2011年度 『筑波大学 その1』

古代の東北経営


【T】8〜9世紀における東北地方の動向について、次の(ア)〜(エ)の語句を用いて論述せよ。解答文中、これらの語句には下線を付せ。ただし、語句使用の順序は自由とする。

(ア)伊治呰麻呂  (イ)坂上田村麻呂  (ウ)文室綿麻呂  (エ)阿弖流為

<考え方>
 見た瞬間に思ったことは、「阪大の第1問とかぶった。」であった。今年は東大と一橋の第1問で、「白村江」もかぶっている。もっとも2009年度にも京大と阪大で、「蘭学の発展」が同時にでているので、珍しいことではないのかもしれない。

 さて、問われていることを確認したい。

ア テーマ:東北地方の動向
イ 時 期:8〜9世紀。つまり奈良時代から平安時代初期である。

 時期については、与えられている語句をもとに年代順に述べていけば、外すことはない。阪大は孝徳朝(7世紀半)からだったので、阪大の第1問の解答の前3分の1をカットして、その分、より具体的に書けばよいとも言える。

 山川の『詳説日本史』ならP.41のL.3〜L.6および、P.51のL.13〜L.18と脚注から、東北経営に関するキーワードと指定された語句を中心に、要点を抜き出すと次のようになる。

 ただし中央政府の東北経営が、P.40の最後にもある「政府が蝦夷とよんだ東北地方の在地の人びと」を対象とするものであることは大前提とする。

(1) 多賀城→8世紀になると軍事的な制圧政策が進められた。日本海側には出羽国がおかれ、ついで秋田城がきずかれ、太平洋側には陸奥国府となる多賀城がきずかれて、それぞれ出羽・陸奥の政治や蝦夷対策の拠点となった。
(2) 城柵→奈良時代にも北上川や日本海沿いを北上して城柵が設けられていった。城柵は、政庁や実務を行う役所群・倉庫倉庫群が配置され、行政的な役所としての性格を持ち、そのまわりに関東地方などからの農民(柵戸)を移住させて開拓が進められた。こうして城柵を拠点に、蝦夷地域への支配の浸透が進められた。
(3) 伊治呰麻呂→光仁天皇の780年には帰順した蝦夷の豪族伊治呰麻呂が乱を起こし、一時は多賀城をおとしいれる大規模な反乱に発展した。この後、東北地方では三十数年にわたって戦争があいついだ。
(4) 坂上田村麻呂・阿弖流為→桓武天皇の789年には大軍を進め、北上川中流の胆沢地方の蝦夷を制圧しようとしたが、族長阿弖流為の活躍により政府軍が大敗する事件もおこった。その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、田村麻呂は802年に胆沢地方に胆沢城をきずき、阿弖流為を帰順させて鎮守府を多賀城からここに移した。翌年には北上川上流に志波城を築造し、東北経営の前進拠点とした。日本海側でも、米代川流域まで律令国家の支配権がおよぶこととなった。
(5) 文室綿麻呂→嵯峨天皇の時に将軍文室綿麻呂が派遣され、最後の城柵徳丹城をきずいた。(東北遠征は嵯峨朝の文室綿麻呂の派遣まで続けられた。)

 これを400字以内でまとめればよい。


<野澤の解答例>
 8世紀になると、政府は蝦夷とよんだ東北地方在地の人びとに対して、軍事的な制圧政策を進めた。日本海側には出羽国がおかれ、ついで秋田城を築き、太平洋側には陸奥国府となる多賀城を築いて、それぞれ出羽・陸奥の政治や蝦夷対策の拠点とした。また各地に城柵を設け、関東地方などから農民を移住させて開拓を進め、蝦夷地域への支配の浸透を進めた。しかし8世紀の後半には伊治呰麻呂が乱を起こし、一時は多賀城をおとしいれる大規模な反乱に発展した。この後東北地方では、三十数年にわたって戦争があいついだ。これに対し8世紀末に桓武天皇は、胆沢地方の制圧のため征夷大将軍坂上田村麻呂を派遣した。田村麻呂は9世紀初めに胆沢城を築き、族長阿弖流為を帰順させて鎮守府を多賀城からここに移した。翌年には北上川上流に志波城を築造し、東北経営の前進拠点とした。中央政府による蝦夷征討は、9世紀前半の嵯峨朝での文室綿麻呂の派遣まで続けられた。(399字)

2011.4.1

 
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