2010年度 『筑波大学 その4』


【W】次の史料は、大正2年(1913)2月の「原敬日記」の一部である。史料中の下線部@〜Cを説明しながら、この前後における政治構造について論述せよ。ただし、@〜Cの使用の順序は自由とするが、それぞれには下線を付せ。

十日 (前略)後に大岡育造の話によれば、大岡議長たりしに付、桂より、桂と余と交渉中なるにより一時間議会の開会を待ちくれよと請求したる由。是れは加藤の余に交渉中なる事を云ひしものならんが、何も交渉中と称する案件ありしにあらず。又其後大岡が大臣室に往き政府の都合を尋ねたるに、桂は余の談話要領を得ず、依て議会を解散せんと桂云ふに付、大岡は現に議院門外に於て騎兵群集を馬蹄にかけ血を流しつつあり、一揆の起る責任を取るべしと云ひたれば、桂は事ここに至る已むを得ずとて閣僚に辞意を洩らし、遂に総辞職に決して停会せしものなりと云へり。或は右様の事情もありしならんが、此場合に臨みては@桂内閣は辞職の外なき境遇に陥りたるものなり。若し尚ほ辞職せずんば、殆んどA革命的騒動を起したる事ならんと思はる。
(中略)
十一日 西園寺より電話に付、余と松田往訪せしに、西園寺云ふ、本日B元老会議開かれ西園寺も召されて参内し拝謁したるに、桂辞職せしに付、後任に付元老等と相談せよとの御沙汰あり。依て会議室に赴きたるに、大山、山県の両人出席し居り、桂も来りて辞職せし顛末を報告して退席したれば、夫より会議を開らきたるも発言する者なし。西園寺より山本権兵衛を推挙せしに、大山先づ同意し、山県も山本にして承諾するならば可なりと云ふに付、西園寺より山本を説く事となり、山本を訪ふて之を談じたるに、山本は心中大に喜びたるものの如く之を承諾せしに因り、帰りて両元老に之を告げたり。尤も山本は政友会の援助を得、共に政府に立つの条件なりしと云ふに付、(中略)又元老会議にて山県が西園寺に内閣を引受くべき様に勧むるに付、西園寺は自分は健康上不可能なり、且つ将来は英国流にC多数党政権を取る事となさざるや、日本の国情にては此事如何と云ひ、元老等英国流にも参らずと云ふに付、遂に山本を挙ぐるに至れりと云へり。
(『原敬日記』第三巻より。表記を一部改めた)

<考え方>
 まずはこの史料が何について書かれているかを判断しなければならない。しかしそれは「桂内閣が辞職しなければ殆ど革命的騒動が起こる事になる」、「元老会議において、山本権兵衛が推挙された」という内容から、大正政変のことだと判断できる。また、このことは設問文に「大正2年(1913)2月」の出来事だと書かれていることで確認できる。
 つまり問われていることは、大正政変前後における政治構造である。

 この大正政変前後の政治的動向は、山川の『詳説 日本史』が詳しい。(ぼくは2010年の第1問、第2問、2009年の第3問の解説でもわかるように、個人的には阪大だけでなく筑波大対策も、実教の教科書が使いやすいと思っているが、この2010年の第4問に限っては、山川の記述がイメージをつかみやすい。)

 さて、大正政変の前は、いわゆる桂園時代であったことはいうまでもない。桂園時代については、『詳説 日本史』のP.270に

(1) 山県の後継者で長州閥の桂太郎がひきいる軍部・官僚・貴族院勢力と、伊藤のあとを受けた西園寺公望を総裁とする立憲政友会とが政界を2分した。老齢の山県や伊藤は政界の第一線からしりぞいたが、非公式に天皇を補佐する元老として首相の選任権をにぎり、内閣の背後から影響力を行使していった。

P.275の最後に
(2) 10年以上にわたって桂と西園寺が交互に内閣を担当した。

 これをベースにしてP.295〜296をまとめていく。

(3) 1912年に明治天皇が死去して大正という新時代が到来したことや、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説や政党内閣論をとなえたことは、国民に新しい政治を期待させた。
(4) 1912年の末、2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独jで辞表を大正天皇に提出し、陸軍が軍部大臣現役武官制をたてにその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。
(5) かわって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣と侍従長を辞して第3次桂内閣を組織すると、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占をくわだてているという非難の声があがった。
(6) 立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄を先頭とする野党勢力やジャーナリストに、商工業者や都市民衆も加わり、第一次護憲運動が全国に広がった。1913年、民衆が議会を包囲する中、在職わずか50日余りで桂内閣は退陣した。(大正政変)
(7) 桂のあとは、薩摩出身の海軍大将山本権兵衛が立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚・軍部に対する政党の影響力拡大につとめた。

 これと指示された言葉をつなげていく。
@の桂内閣は問題ない。
Aの革命的騒動は、「民衆が議会を包囲する中、在職わずか50日余りで桂内閣は退陣した。」という部分、すなわち民衆運動が倒閣したことを述べればよい。
Bの元老会議だが、これは史料の内容をそのまま使用して、元老会議で山本権兵衛が後継首相に決まったことか、あるいは(1)の部分で「元老会議が天皇に首相を推薦する」という政治構造を述べればよい。
Cの多数党政権は、政党内閣論と結びつけることができる。

 さらに注意しなくてはならないのは、問われていることは大正政変前後の政治構造である。

A 政界の第一線から退いた伊藤博文や山県有朋らによる元老会議が、首相を天皇に推挙していた。
B 山県の後継者で長州閥の桂太郎がひきいる軍部・官僚・貴族院勢力と、伊藤のあとを受けた西園寺公望を総裁とする立憲政友会とが政界を2分し、10年以上にわたって交互に内閣を担当した。
C 美濃部達吉による天皇機関説や衆議院における多数党政権である政党内閣論によって、国民は新しい政治を期待していた。
D 2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して、陸軍が軍部大臣現役武官制をたてに、西園寺内閣を総辞職に追い込んだ。
E かわって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、第3次内閣を組織すると、立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄を先頭とする野党勢力やジャーナリストに、商工業者や都市民衆も加わり、第一次護憲運動が全国に広がった。
F 1913年、民衆が議会を包囲するという革命的騒動によって、在職わずか50日余りで桂内閣は退陣した。(大正政変)
G 桂のあとは、薩摩出身の海軍大将山本権兵衛が元老会議により首相に推され、立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚・軍部に対する政党の影響力拡大につとめた。

 これを400字でまとめればよい。


<野澤の解答例>
政界の第一線から退いた伊藤博文や山県有朋らによる元老会議が、首相を天皇に推挙するという構造の中、山県の後継者で長州閥の桂太郎が率いる軍部・官僚・貴族院勢力と、伊藤のあとを受けた西園寺公望を総裁とする立憲政友会とが政界を2分し、10年以上にわたって交互に内閣を担当していた。美濃部達吉によって天皇機関説や多数党政権である政党内閣論が説かれ、国民は新しい政治を期待するようになっていた。陸軍が軍部大臣現役武官制をたてに、西園寺内閣を総辞職に追い込み、かわって桂太郎が第3次内閣を組織すると、政党員のみならず民衆も加わった第一次護憲運動が全国に広がった。そして民衆が議会を包囲するという革命的騒動によって、桂内閣は退陣した。大正政変の後、山本権兵衛が元老会議により首相に推され、政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は文官任用令や軍部大臣現役武官制を改めるなど、官僚・軍部に対する政党の影響力拡大につとめた。 (400字)

2010.5.13

 
筑波大学入試問題indexへ戻る