2010年度 『筑波大学 その2』
【U】14〜16世紀における日本と中国の関係の推移について、次の(ア)〜(エ)の語句を用いて論述せよ。解答文中、これらの語句には下線を付せ。ただし、語句使用の順序は自由とする。
(ア)寧波の乱 (イ)「本字壱号」 (ウ)永楽通宝 (エ)倭寇
<考え方>
14世紀から16世紀というと、1300年代から1500年代である。
2度の蒙古襲来(元寇)は1200年代後半だからそのものは入らないが、元へは北条高時が建長寺船を、足利尊氏・直義が天竜寺船を派遣したことは基本事項である。
そして1500年代というと、関ヶ原の戦い(1600)の前までだから、豊臣政権までの日中交渉ということになる。わざわざ豊臣政権までとしていることに留意したい。
この間の日朝関係を山川の『詳説日本史』から抜き出してみる。
(1) 鎌倉幕府は1325年建長寺修造の資金を得ようと元に建長寺船を派遣した。
(2) 足利尊氏は夢窓疎石のすすめで、後醍醐天皇の冥福を祈るため天竜寺を建立しようとし、その造営費調達のために1342年天竜寺船を元に派遣した。
(3) 南北朝の動乱のころ、対馬・壱岐・肥前松浦地方の住民を中心とする海賊集団が、朝鮮半島や中国大陸の沿岸をおそい、倭寇とよばれて恐れられていた。
(4) 蒙古襲来の後も元と日本との間に正式な外交関係はなく、私的な商船の往来があるに過ぎなかった。
(5) 1368年朱元璋が明を建国した。明は中国を中心とする伝統的な国際秩序の回復を目指して、近隣諸国に通交を求めた。
(6) 足利義満は1401年に明に使者を派遣して国交を開き、明を中心とする国際秩序の中で朝貢形式で日明貿易が行われた。
(7) 遣明船は明から交付された「本字壱号」などと記された勘合とよばれる証票を持参することを義務付けられた。
(8) 貿易は4代足利義持が朝貢形式に反対して一時中断されたが、6代足利義教のとき再開された。
(9) 朝貢形式の貿易は滞在費・運搬費などすべて明側が負担したので、日本の利益は大きく、とくに大量にもたらされた永楽通宝などの銅銭は、日本の貨幣経済に大きな影響を与えた。
(10) 15世紀後半、幕府の衰退とともに貿易の実権は堺商人と結んだ細川氏や博多商人と結んだ大内氏の手に移った。1523年におこった寧波の乱の結果、大内氏が貿易を独占したが、16世紀半ばに大内氏の滅亡とともに勘合貿易も断絶した。
(11) それとともに再び倭寇の活動が活発となり、豊臣秀吉が海賊取締令を出して禁止するまで続いた。後期倭寇には中国人などの密貿易者も多く、彼らは日本の銀と中国の生糸との交易を行うとともに、海賊として広い地域にわたって活動した。
(12) 明は海禁政策をとって私貿易を禁止していたが、環シナ海の人びとは国の枠を越えて広く中継貿易を行っていた。16世紀にはヨーロッパ人(ポルトガル人など南蛮人)がこの貿易に参入し、中国の生糸などを日本にもたらし、銀などと交易した。
(13) 豊臣秀吉は朝鮮に対し入貢と明出兵への先導を求め、朝鮮侵略を行い、明とも交戦した。
これを400字でまとめればよい。
この際注意することは、問われているのはあくまでも日本と中国の関係の推移であって、日本の国内情勢ではない。具体的に言うと、(8)などは全面カットでよいと思う。
なお、『詳説日本史』には、明が足利義満との間の国交樹立に際して、倭寇の禁圧を求めてきたという文面はない。困ったことである。しかし、実教、三省堂など他の教科書には「朝貢と倭寇の取り締まりを求めてきた」と明記されており、解答例では使用させてもらった。
<野澤の解答例>
蒙古襲来後も元と日本との間に正式な外交関係はなかったが、私的な商船が往来した他、建長寺船など鎌倉・室町幕府の貿易船が派遣された。一方、倭寇と呼ばれる海賊集団が朝大陸沿岸をおそっていた。14世紀の半ばに明が建国され、倭寇の禁圧と朝貢形式による通交を求めてくると、足利義満はこれに応じて国交を開き、貿易が開始された。遣明船は明から交付された「本字壱号」などの勘合の持参を義務付けられたが、日本の利益は大きく、とくに大量にもたらされた永楽通宝などの銅銭は、日本の貨幣経済に大きな影響を与えた。16世紀前半におこった寧波の乱の結果、大内氏が貿易を独占したが、その滅亡によって勘合貿易も断絶した。それとともに中国人などの密貿易者を中心とする後期倭寇の活動が盛んとなり、さらにポルトガル人も参入して、明の海禁政策下で日本の銀と中国の生糸などとの交易が行われた。しかし豊臣秀吉の朝鮮侵略によって、日本は明とも交戦した。 (400字)
2010.4.27