東大チャート 1999年度 『東京大学 第3問』 の解答例と解説

ー 江戸時代の商家の相続ー

<野澤の解答例>

有力な商家でも武家と同様に長男が相続することが原則であったが、武家の財産が家禄として固定されているのに対して、商家の財産は経営状態によって増減するため、長男が経営者としての能力に欠けている場合は、次男以下の優秀な兄弟や養子に相続させた。しかし女子は他家に嫁ぐものとして、相続権の対象外とされていた。 (149字)


<解説>
 チャート図中で二重枠になっている部分以外は、すべて資料の要約に過ぎない。問われていることが商家を武家と比較してなので、共通点と相違点が分かるような書き方が望ましいと思う。

 共通点は、長男による単独相続が原則あったこと。
 相違点は、商家は、相続人たる長男の成長が思わしくない、つまり経営者としての資質・能力欠けていた場合は、次男以下の親族から選び、それもだめだったら他家から養子をもらってでも優秀な者に相続させた点である。
 ここまでなら単なる要約である。ではなぜ、武家はあくまで長男による相続を貫けたのに対して、商家は柔軟に対応したのか。
 そのキーワードが、血脈の子孫でも、家を滅亡させかねない者へは家の財産を与えてはならない。」という部分である。

 商家は経営者の手腕次第では、家を滅亡させる可能性があった。だからたとえ長男であっても、経営の能力や資質に欠け、家を傾ける恐れがあるものには家を相続させなかったのである。仮に娘の婿養子であったとしても、生まれた子どもは血脈であり、血を繋いでいくことはできる。「息子は選べないが、婿は選べる。」という言葉もある。

 では、武家は家が滅亡する可能性がなかったのか?

 結論から言うと、YESである。不祥事があった場合は別として、主人の才覚の有無で家が滅亡することはなかった。なぜなら武家の収入は、家禄として固定されていたからである。

 このことは、享保の改革の際の「足高の制」を考えれば分かる。教科書には「旗本の人材登用にあたっては、大番頭5000石、大目付・町奉行・勘定奉行3000石などの役職による基準(役高)を定め、それ以下の禄高のものが就任する時、在職期間中のみ不足の石高(役料)をおぎなう足高の制」と記されている。(山川『詳説日本史』)

 この背景には、幕臣の勤務は本質的には将軍への役負担(戦時の軍役、鎌倉時代の京都大番役などと同じ)であり、勤務の遂行に要する費用・人件費は自己負担が原則であったことがある。戦国時代の大名の家臣が、その知行に応じて軍役を負担したように、幕臣もその知行に応じた役職を勤めた。そのため家禄が少ない者を抜擢する場合は、それに見合う禄を支給する必要があった。その差額分が役料である。しかし役料は退役後も家禄に加給されたため、幕府財政を圧迫するようなった。足高の制は、この問題の解決を図ったものであった。

 固定された家禄であったから、実際は働いても働かなくても収入は一緒であったが、人間は自分が役に立っていたい、認められたいという欲求がある。(マズローの「欲求の5段階」参照)
 これはかつて大ヒットした『元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世 』(神坂次郎:中公新書 1984年)にも書かれていた。城門の番人など、平和な社会では必要ないのだが、週に数回のその日が待ち遠しい。収入に関係なくても働きたい。
 ただ平和な時代の武士は、多くの場合個人の才能が家の浮き沈みに関係しなくなっているから、御家騒動にならないように長男が家を継ぐと決めていた。

 しかし、商家はそうはいかなかった。平和で経済が発展した社会においては、商家はまさに乱世であった。その中でいかに家の財産を守り、増やして子孫に伝えていくかは商家にとって最大の課題であった。

 実はこの問題を見たとき、学生時代の思い出がよみがえった。かなり昔の記憶なので正確なところが誤っていたら申し訳ない。

 何気ない会話のやりとりの中で、指導教官であった脇田修先生が次のように言われた。(甲高い声で)

江戸時代の豪商は相当ぜいたくしていたように思われてるけど、あれは勘違いや。彼らは相当倹約に力を入れとる。ある時、泉屋(住友)の主人が、跡取りになるはずの長男が漬け物に醤油をかけたのを見て、歎いたんや。『漬け物に醤油をかけるようなぜいたく者に育ってしまって、家が潰れる。』と。漬け物はもとから味がついとる。それなのに、なおそれに味をつけるようなぜいたくをしたらあかんっちゅうことや。

 店の主人でも食事は使用人と一緒に同じものを食べた。主人だけが良いものを食ったりなんかしてない。そんなところを使用人に見せたら、使用人が本気で倹約しようとせんなる。だから食事は同じ質素なものを一緒に食べて、どうしてももう少し何か欲しいなと思うたら、その後でそっと家を出て外で食べたんや。それくらい徹底しとった。

 家も長男が継ぐとは決まってなかった。一番優秀な者に継がせた。息子たちがみなあかんかったら、娘に優秀な婿をとって譲った。男の子たちは生活には困らんようにしてやったが、絶対家は継がせなかった

 明治時代になって、民法ができて「家は長男が継ぐ」となったとき、商人たちは大反対した。そしてせめて生まれた順ではなく、認知した順番にしてくれと言った。子どもたちがある程度大きくなったら、誰が優秀かは分かってくる。生まれた時には認知せずにおって、その段階で優秀な順番に認知する。そしてその順を相続の順番にさせてくれっちゅうたんや。」
 
 まさに今回の解答そのものの話であった。

 ただぼく個人としては、最後の「女子は相続権の対象外であった」という部分には疑問も持っている。
 それは エピソード『誰が守るか『女大学』 にも書いた松坂屋ウタのような女性もいたからである。(現在の松坂屋百貨店となる松坂屋の10代当主ウタ20代前半で当主となって、江戸進出の原動力となるなど大いに活躍した。)
 ただウタの資料が、松坂屋自身にさえほとんど残されていないことも事実(地方の企業に過ぎなかった会社が、東京へのメジャー進出を果たして成功したとあっては、普通なら社史を彩る英雄のはずである。)であり、今回の東大の問題が示すように、商家において基本的に女性は家を相続する者とは見なされていなかったことも確かであろう。

 
2011.12.13

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