2019年度『東京大学 その2』


鎌倉時代の朝幕関係

  

【2】 次の(1)~(3)の文章を読んで,下記の設問A・Bに答えなさい。

(1) 1235年,隠岐に流されていた後鳥羽上皇の帰京を望む声が朝廷で高まったことをうけ,当時の朝廷を主導していた九条道家は鎌倉幕府に後鳥羽上皇の帰京を提案したが,幕府は拒否した。

(2) 後嵯峨上皇は,後深草上皇と亀山天皇のどちらが次に院政を行うか決めなかった。そのため,後嵯峨上皇の没後,天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれた。

(3) 持明院統と大覚寺続からはしばしば鎌倉に使者が派遣され,その様子は「競馬のごとし」と言われた。

設問
A 後鳥羽上皇が隠岐に流される原因となった事件について,その事件がその後の朝廷と幕府の関係に与えた影響にもふれつつ,2行(60字)以内で説明しなさい。

B 持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣されたのはなぜか。次の系図を参考に,朝廷の側の事情.およびAの事件以後の朝廷と幕府の関係に留意して,3行(90字)以内で述べなさい。



 下の画像をクリックすると「
東大チャート」とそのまとめ方が開きます(pdf)。
 ただし、
2019年度の「土曜市民講座-東大入試で学ぶ日本史」第2講(7月予定)の資料のメイン部分です。
 ですから、市民講座に参加される方は、見ない方が当日の楽しみが増すと思います。
        

           
    東大チャート空欄あり         空欄記入済み・解答例あり


<参考>
駿台サテライト
A幕府は、後烏羽上皇の挙兵を制圧した承久の乱後、六波羅探題を設置し、没収した所領の地頭職を御家人に与え、西国も支配した。(60字)
B持明院統と大覚寺統は皇位継承、院政を行う権利、荘園の相続などで対立していたので、政治刷新を求め、皇位継承に介入するなど朝廷に影響力を持つ幕府に働きかけ、優位な地位を得ようとした。(90字)

河合塾
A承久の乱で後鳥羽上皇が敗れたことで幕府の朝廷に対する優位が確立し、皇位継承や朝廷政治にも幕府が干渉するようになった。(60字)
B後嵯峨上皇が院政の後継者を定めずに死去したため皇統が分裂した。その結果、自らの系統への皇位継承や院政を行う権利などを求めて、実質的決定権を持つ幕府からの優位な裁定を得ようとした。(90字)

代々木ゼミナール
A承久の乱で北条義時追討の兵を挙げた後鳥羽上皇に対し,東国武士を結集させた幕府方が勝利して,幕府が朝廷より優位に立った。(60字)
B持明院統と大覚寺統は,皇位継承をめぐって対立していたが,院政を担当する上皇の認定や皇位継承の決定に深く関わっていた幕府に対し,それぞれが優位な立場に立とうとして働きかけを行った。(90字)

東進ハイスクール
A後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じて勃発した承久の乱に幕府は勝利し,朝廷に対して優位に立って,その動向を監視し干渉した。(60字)
B朝廷では皇位の継承や院政を行う権利に関する規定が不明確だったために,それらを巡って持明院統と大覚寺統がたびたび対立し,両統とも幕府の朝廷に対する影響力に依存してかちとろうとした。(90字)


Aについて
 承久の乱までは、公家優位の公武二元支配だった。一族の藤原頼経の将軍就任が朝幕間の融和をもたらすと期待していた慈円が、『愚管抄』を著して後鳥羽上皇を諫めたように、朝幕関係は別の道をたどった可能性があったのかもしれない。
 しかし、後鳥羽上皇が北条義時追討の兵を挙げて、大敗するという「自爆テロ」で、この可能性を吹っ飛ばした結果、幕府が朝廷より優位に立ったという部分が、今回のポイントではないかとぼくは考える。だから「六波羅探題設置、新たに地頭職を御家人に与えた云々」に終始した答案は、的を外しているように、ぼくには思える。

Bについて
 ぼくは、東大の問題は拙著、『教科書一冊で解ける東大日本史』で使わせてもらった後醍醐天皇を取り上げた問題(1991年第2問)のように、一般的に思われていることを、「本当にそう?」と投げかけてくるところがあるような気がする。
 鎌倉幕府による両統迭立も、幕府が皇位継承に介入して、キングメーカーとして振る舞い「朝廷を支配」したのだという理解をしている人が、結構いるように思う。
 しかし実際には、幕府は本当は天皇家の家庭事情には関わりたくなかったのだけど、設問文にもある「朝廷の側の事情」に巻き込まれて、玉虫色の解決方法をとった。この優柔不断さが自分の首を絞めることになり、後醍醐による倒幕を招くのであった。

 2019.3.7

 

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