2018年度『東京大学 その1』


藤原京の歴史的意義

  

【1】 中国の都城にならって営まれた日本古代の宮都は、藤原京(694~710年)にはじまるとされる。それまでの大王の王宮のあり方と比べて、藤原京ではどのような変化が起きたのか。律令制の確立過程における藤原京の歴史的意義にふれながら、6行(180字)以内で説明しなさい。なお、解答には下に示した語句を一度は用い、使用した語句には必ず下線を引きなさい。

            官僚制  条坊制   大王宮   大極殿


<考え方>

1 問われている(求められている)ことを確認する。

ア 「それまでの大王の王宮のあり方と比べた藤原京での変化」について書く。
イ 「律令制の確立過程における藤原京の歴史的意義にふれながら」書く。
ウ 4つの指示語(官僚制・条坊制・大王宮・大極殿)を必ず用いて書く。
エ 6行(180字)以内で書く。

ことである。

 
歴史的意義とは、
ア 今までこうだった
イ 何をした
ウ その結果こうなった

であるから、
その差異がはっきりと分かる答案を書きたい


2 関係する教科書(『詳説日本史B』山川出版社)の記述を確認する。
 ドンピシャ当たりだと思われるのが、P40の脚注にある

 藤原京は、それまでの一代ごとの大王宮とは違って、三代の天皇の都となり、宮の周囲には条坊制をもつ京が設けられて、有力な王族や中央豪族がそこに集住させられた。そして国家の重要な政務・儀式の場として、中国にならった瓦葺で礎石建ちの大極殿・朝堂院がつくられるなど、新しい中央集権国家を象徴する首都となった。

である。これをもとに、今までの大王宮と藤原京の差をクローズアップしたい。

(1) 「藤原京は、それまでの一代ごとの大王宮とは違って、三代の天皇の都となり」
P40の本文中には、

 天武天皇のあとを継いだ皇后の持統天皇は諸政策を引き継ぎ、689年には飛鳥浄御原令を施行し、翌690年には戸籍(庚寅年籍)を作成して民衆の把握を進めた。そして694年には、飛鳥から本格的な宮都藤原京に遷都した。

とも記されているので
→①
それまでの一代ごとの大王宮とは違って、藤原京は、中国にならい、宮の周囲に条坊制をもつ京が設けられた本格的な都城として造営された。

(2) 「有力な王族や中央豪族がそこに集住させられた」
  ここから、それまでは有力な王族や中央豪族は集住していなかったことがわかる。これは、教科書のP36に

 6世紀末から、奈良盆地南部の飛鳥の地に大王の王宮がつぎつぎに営まれた。有力な王族や中央豪族は大王宮とは別にそれぞれ邸宅をかまえていたが、大王宮が集中し、その近辺に王権の諸施設が整えられると、飛鳥の地はしだいに都としての姿を示すようになり、本格的宮都が営まれる段階へと進んだ。

と記されており、本格的宮都に注をつけて藤原京へつないでいる。
 ここから、
→②
それまでは、有力な王族や中央豪族は大王宮とは別にそれぞれ邸宅をかまえていたが、藤原京に集住させられた。

 では、なぜ集住させられたのか。これが、
「国家の重要な政務・儀式の場として、中国にならった瓦葺で礎石建ちの大極殿・朝堂院がつくられるなど」
の部分である。国家の重要政務や儀式の場として大極殿や朝堂院、そして官庁などがつくられ、そこで有力な王族や中央豪族が、官僚制(指示語)のもと官吏(官人)として政務をとるようになったからである。

では、それまではどこで政務を行っていたのか。集まっていないのだから、それぞれの邸宅でバラバラに行っていたことになる。
 ここから、
→③
それまでは、それぞれの邸宅でバラバラに政務を行っていた有力な王族や中央豪族は、官僚制(指示語)のもと官吏として大極殿や朝堂院などで政務をとるようになった。

 ここで、もう一度、求められていることを確認すると、
イ 「律令制の確立過程における藤原京の歴史的意義にふれながら」
とある。
 律令制度とは、能力(試験)で選ばれた官僚が、法(律令)に基づいて中央集権政治を行うことである。つまり、
→④
有力な王族や中央豪族は、律令制に基づく官僚制を推進し、中央集権政治を確立するために集住させられた。

と結びつけることができる。以上①~④をまとめて、


<野澤の解答例>
 

 それまでは一代ごとの大王宮がつくられ、有力な王族や中央豪族は各邸宅で政務を行っていた。それに対して藤原京は中国にならい、宮の周囲に条坊制をもつ京が設けられた本格的な都城として造営された。官僚制によって官吏となった有力な王族や中央豪族は集住させられて、政務は重要政務や儀式の場である大極殿・朝堂院などでとるようになり、藤原京は律令制を確立するための首都となった。
(180字)


<参考>

駿台サテライト
天武・持統朝において、豪族領有民は廃止され、位階も整備されて官僚制が形成された。藤原京は、一代限りの大王宮と異なり、三代の天皇の都となったが、宮の周囲に碁盤目状の道で区画された条坊制を持つ京が設けられた都城であり、律令国家を象徴する首都として建設された。宮には政務を行う朝堂院や大嘗祭などを行う太極殿が設けられ、京には官僚となった豪族を集住させ政務を担わせた。(180字)

河合塾
ヤマト政権下では大王宮において政治が行われ、代替わりごとに宮が移ったが、律令制が確立し官僚制が整備されるなか、官人化した豪族の居住空間が必要となった。藤原京は三代の天皇の都となり、条坊制をもつ京が設けられ、王族や官人が集住させられた。宮内には、政務・儀式の場として、瓦葺で礎石建ちの大極殿や朝堂院、官庁などがつくられ、中央集権国家の威信を示す都城となった。(178字)

東進
それまでは一代ごとに大王宮が営まれ、豪族はそれぞれの本拠地に邸宅を構えていた。一方、藤原京では中央集権国家を支える官僚制の整備に伴い、豪族を官人として京内に集住させるため、京域が設定され、その宅地は碁盤目状の道路で区画された条坊制に基づいて供給された。宮城には政務・儀礼の場として大極殿・朝堂院が整備されるなど、藤原京は永続的な宮都として想定された都城だった。(180字)

代々木ゼミナール
行政組織の未発達な氏姓制度の下で、大王の住居中心の大王宮は代ごとに転々とした。―方、藤原京は律令国家の形成や官僚制の整備が推進された天武・持統朝に、天皇の権威を示す恒常的な都として中国にならい計画・造営された。また、天皇の住居や政務・儀式を行う大極殿、官衙が集まる宮と、官僚の居住地であり碁盤目状の条坊制をもつ京が設けられ、中央集権国家を象徴する首都となった。
(180字)


 以前、某予備校で行われた研究会で、参加者の一人から「指示語の意味を説明する必要があるのか?」という質問が出された。これについて、講師が「指示語は使うものであって、説明するものではないと私は考えている」と答えられた。
 ぼくもこの方針(拙著『教科書一冊で解ける東大日本史』にも書かせていただきました)なので、「碁盤目状の道で区画された条坊制」とか「瓦葺で礎石建ちの大極殿や朝堂院」などは不要なのではないかと思う。
 その一方で、大極殿については「重要政務や儀式の場としての大極殿や朝堂院」と記したのは、この重要政務・儀礼の場を設けて、それを取り仕切る官僚たちを集住させたことが、この問題のキーワードとなると考えたからである。


2018.3.1

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