2015年度 『東京大学 その2』

御家人の所領経営
  

【1】次の(1)~(4)の文章を読んで、下記の設問A ・Bに答えなさい。

(1) 相模国三浦半島を本拠とした御家人三浦氏は、 13世紀なかばまでには、陸奥国名取(なとり)郡 ・好島西(よしまにし)荘、河内国東条中村(とうじょうなかむら)、紀伊国石手(いわで)荘 ・弘田(ひろた)荘、肥前国神埼(かんざき)荘など全国各地に所領を有するようになっていた。

(2) 1223年、御家人大友能直(おおともよしなお)は、相模・豊後国内の所領を子供たちに譲った際、幕府への奉公は惣領の指示に従うことを義務づけていた。しかし、のちに庶子のなかには直接に幕府へ奉公しようとする者もあらわれ、惣領との間で紛争が起こった。

(3) 1239年の鎌倉幕府の法令からは、金融業を営む者が各地の御家人の所領において代官として起用され、年貢の徴収などにあたっていたことがうかがわれる。

(4) 1297年、鎌倉幕府は、御家人が所領を質入れ ・売却することを禁じ、すでに質入れ・売却されていた所領は取り戻すように命じた。ただし、 翌年にはこの禁止令は解除された。

設 問
A  御家人の所領が(1)のように分布することになったのはなぜか。鎌倉幕府の成立 ・発展期の具体的なできごとにふれながら、 2行以内で述べなさい。

B  (1)のような構成の所領を御家人たちはどう いった方法で経営したか。また、それがその後の御家人の所領にどのような影響を与えたか。 4行以内で述べなさい。


<考え方>

Aについて。
求められているのは、
(1) 相模国三浦半島(関東)を本拠とした御家人の所領が、
(2) 13世紀なかば(1250年)までに、陸奥国(東北)から河内国、紀伊国(関西)、肥前国(九州)など各地に広がった理由を書く。
(3) 鎌倉幕府の成立・発展期のできごとにふれながら書く
(4) 60字で書く

ことである。

 これはできなかればならない。

ア もともと頼朝は、鎌倉を根拠地として関東武士と主従関係を結び、御家人としてその所領支配を保障した。
 ( 「頼朝は挙兵後まもなく、相模の鎌倉を根拠地として広く主従関係の確立につとめ、関東の荘園・公領を支配して御家人の所領支配を保障していった。」(山川『詳説日本史』P89脚注))

イ 鎌倉幕府は、奥州藤原氏を滅亡させ、陸奥・出羽(東北)を支配下においた。
 ( 「
頼朝は(略)、1189(文治5)年、奥州に軍を進めて泰衡を討ち、陸奥・出羽2国を支配下においた。」(『詳説日本史』P89脚注))

ウ 関西、九州に支配を広げたのは承久の乱(1221)によってである。
 ( 「
上皇方について貴族や武士の所領3000余カ所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命した。これによって畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が広くおよぶようになった。」(『詳説日本史』P94))

 これを60字でまとめればよい。



Bについて。
求められているのは、
(1) 全国に広がっている所領を御家人たちはどういう方法で経営したかを書く。
(2) その経営方法が、御家人の所領にどのような影響を与えたかを書く
(3) 120字で書く

ことである。

資料(2)から、
ア 御家人は相模(関東)、豊後(九州)の所領を子どもたち(惣領と庶子)に
分割相続させた
イ 庶子は惣領の統制下にあるよう義務づけられていた。
ウ しかし、後には庶子が惣領の統制から独立しようとするようになり、紛争が起こるようになった。

資料(3)から、
エ 御家人の中には所領の経営を金融業者(
借上)に請け負わせる者もあった。

資料(4)から、
オ アにような分割相続が繰り返された結果、所領が細分化したことで、御家人の中には(生活が困窮して)所領を(
借上に)質入れ・売却するものがでた。
カ 幕府はそれを禁止し、所領を取り戻させようとしたが、翌年、撤回した。

 これをまとめると、

(1) どのような方法で経営したか
 御家人は各地の所領を惣領と庶子に分割相続させたが、中には所領の経営を借上に請け負わせる者もあった。

(2)その経営方法が、御家人の所領にどのような影響を与えたか
 分割相続の前提として、庶子は惣領の統制下におかれた。しかし後には庶子が惣領の統制から独立しようとして紛争が起こるようになった。
 分割相続が繰り返された結果、所領が細分化したことで、御家人の中には生活に困窮した。そのため所領を借上に質入れ・売却するものがでた。幕府はそれを禁止し、所領を取り戻させようとしたが、成功しなかった。


 となる。

 ぼくとしては、資料(4)が、「すでに質入れ・売却されていた所領は取り戻すように命じた。」で終わりではなく、「
ただし、 翌年にはこの禁止令は解除された。」まで記されていることから、「結局、所領を失うことになった。」まで記したいと考える。

 
借上との関係は、生活が困窮する以前に、所領の経営を請け負わせるところから始まっていた。だから、困窮するとその付き合いのあった借上から御家人は借金をした。幕府はそれを禁止したが、そのことは、御家人の金融の道を閉ざすことになり、成功しなかった。
 

 よく、所領の細分化と貨幣経済の進展により生活が困窮したから、御家人は借上に借金をし、そのかたに所領を失っていったように思われているが、実際には、

 生活が困窮したから仕方なく借上と関係を持ったのではなく、以前から所領経営を請け負わせるなど関係を持っていた借上にその所領をとられた


 ということになる。 



<野澤の解答例>
 
A幕府は関東武士の所領支配を保障し、奥州藤原氏を滅亡させ東北を、承久の乱で西国を支配し、御家人をその地の地頭に任命した。
(60字)
B御家人は所領を惣領と庶子で分割相続したが、中には所領の経営を借上に請け負わせる者もいた。庶子は惣領の統制下に置かれたが、後には庶子の独立傾向が強まった。所領の細分化によって生活が困窮すると、その借上に所領を質入れ・売却して失う者がでた。
(119字)


2015.3.2

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