2015年度 『東京大学 その1』
仏教が神々に与えた影響
【1】日本列島に仏教が伝わると、在来の神々への信仰もいろいろな影響を受けることとなった。それに関する次の(1)~(6)の文章を読んで、下記の設問A
・Bに答えなさい。
(1) 大和国の大神神社(おおみわ)では、神体である三輪山が祭りの対象となり、のちに山麓に建てられた社殿は礼拝のための施設と考えられている。
(2) 飛鳥寺の塔の下には、勾玉や武具など、古墳の副葬品と同様の品々が埋納されていた。
(3) 藤原氏は、平城遷都にともない、奈良の地に氏寺である興福寺を建立するとともに、氏神である春日神を祭った。
(4) 奈良時代前期には、神社の境内に寺が営まれたり、神前で経巻を読む法会が行われたりするようになった。
(5) 平安時代前期になると、僧の姿をした八幡神の神像彫刻がつくられるようになった。
(6) 日本の神々は、仏が人々を救うためにこの世に仮に姿を現したものとする考えが、平安時代中期になると広まっていった。
設 問
A 在来の神々への信仰と伝来した仏教との間には違いがあったにもかかわらず、両者の共存が可能となった理由について、 2行以内で述べなさい。
B 奈良時代から平安時代前期にかけて、神々への信仰は仏教の影響を受けてどのように展開したのか、 4行以内で述べなさい。
<考え方>
この第1問をみて、こう思った受験生が多かったのではないか。
「この(1)~(6)の資料は、全部見たことがある。全部、教科書の記述だ。」
ぼくは常々、「東大の入試問題には、教科書にないものはでない。」と言っているが、ここまで徹底するとやはり凄いと感心した。
さて、
Aについて。
求められているのは、
(1) 在来の神々への信仰と仏教の共存が可能となった理由について書く
(2) 違いがあったにもかかわらず共存できた理由について書く
(3) 60字で書く
ことである。
二つめのポイントには注意したい。
「在来の神々への信仰と伝来した仏教の両者の共存が可能となった理由について」で意味は通じるところを、設問文はわざわざ「違いがあったにもかかわらず」と念押ししているのである。
つまり、「本来は違いであったものが、違いではないと解釈された(すりかわった)」点に留意しなければならない。
与えられている資料から、
(1)は、教科書(山川『詳説 日本史』P27脚注)に、「三輪山を神体とし、拝殿のみで本殿のない奈良県大神神社(略)などでは、いずれも古墳時代の祭祀遺跡が発見されており、古墳時代以来の祭祀が続いていることが知られる。」と書かれており、本文には、「人びとは、円錐形の整った形の山や高い樹木、巨大な岩、絶海の孤島、川の淵などを神のやどるところと考え、祭祀の対象とした。それらのなかには、現在も残る神社につながるものも少なくない。」と記されている。
つまり、在来の神々への信仰は、八百万の神といわれるとおり、自然崇拝に由来しており、もともと非常にフレキシブル(柔軟)であった。
さらに教科書の記述は、次のように続いている。「また氏の祖先神(氏神)をまつることもおこなわれるようになったらしい。」
この氏神を祭ることと、仏教が共存していったことを提示しているのが、資料(3)である。
では、どのようにして氏神信仰と仏教が共存していったのか。それが資料(2)となる。「飛鳥寺の塔の下には、勾玉や武具など、古墳の副葬品と同様の品々が埋納されていた。」教科書にも「飛鳥寺の発掘調査では、塔の心礎から古墳の副葬品と同種の品が出土し、在来の信仰と習合する形で仏教が導入されたのが知られた。」(山川『詳説日本史』P31脚注)と記されている。
実は、ここで個人的に困ったことが起こった。
ぼくは、この「入試問題解説」では、「大阪大学を除き、最も利用者の多い山川の『詳説日本史』の記述のみで解く」をポリシーとしていることである(大阪大学は実教の教科書のみで解く)。
今回、受験生にとって必要であろうことで、山川の『詳説日本史』のみに記述がないものがある。
それが、伽藍配置と伽藍の意味である。『詳説日本史』以外の、実教、三省堂、東京書籍の教科書にはすべて以下のような記述がある。 (実教『日本史B』より)

伽藍配置は受験生にとって、たとえ山川の『詳説日本史』には記されてなくてもなくても必須であり、学習していると考え、使用させてもらう。
ここに、教科書でも資料(2)でも触れられている「塔」という言葉に意味があることが分かる。
「信仰の対象となるもの(=釈迦)の遺品(遺骨)を祭る塔→寺院」に、「祭られる対象となる者(=祖先(氏神))の遺品(副葬品)を納める→古墳」の役割をかぶせているのである。
だから、「寺院の建立は古墳にかわって豪族の権威を示すもの」(『詳説日本史』P31)となりえたのである。
以上をまとめると
ア 在来の神々の信仰は、自然崇拝に由来しており、もともと(元来)本来非常に柔軟性に富んでいたから
イ 古墳が担っていた祖先(氏神)への祭祀・儀礼の役割を、仏教寺院の仏舎利信仰に肩代わりさせる(負わせる)ことができたから
となる。この内容を60字におさめればよい。
なお、教科書の天平文化の項では、「在来の祖先信仰と結びついて、祖先の霊をとむらうための仏像の造立や書写などがおこなわれた。」とあり、イの内容を補足してくれる。
Bについて。
求められているのは、
(1) 奈良時代から平安時代前期にかけての内容を書く
(2) 仏教の影響を受けて、神々への信仰がどのように展開したのかを書く
(3) 120字で書く
ことである。
資料(4)から、「奈良時代前期には、神社の境内に寺(神宮寺)が建てられたり、神前で読経するなどの神仏習合の風潮が見られるようになった。」
資料(5)から、「平安時代前期になると、神仏習合を反映して僧形の神像彫刻が盛んにつくられるようになった。」
資料(6)から、「平安時代中期になると、神仏習合が進んで、日本の神々は、仏が人々を救うためにこの世に仮に姿を現したものとする本地垂迹説が広まっていった。」
ここで、注意したいのは、問われていることは、「平安時代前期にかけての内容を書く」ことである。そのまま「平安時代中期には、本地垂迹説が広まった。」では、問われていることを外すことになる。「中期=広まった」なのだから、「前期=始まった、もしくは教科書の記述を用いて生まれた」としたい。
これを単純にまとめると、
奈良時代には、神宮寺の建立や神前読経といった神仏習合の風潮が見られ、平安時代前期には僧形の神像彫刻が盛んに作られた。後には神仏習合はさらに進み、日本の神々は、仏が人々を救うためにこの世に仮に姿を現したものとする本地垂迹説が生まれた。(120字)
となる。これで基準点はもらえるのではないかと思う。と、言うより、受験生はここまでは確実に書けなくてはならない。
しかし、いつも述べていることだが、東大は「歴史の本質」を問うてくる。要約しただけで完成のはずがない。
では、ここで要求されているものは何か。教科書にはこう書いてある。
「のちには天照大神を大日如来の化身と考えるなど、それぞれの神について特定の仏をその本地として定めることがさかんになった。」(『詳説日本史』P66脚注)
設問Aを振り返ってみたい。在来の神々の信仰は、自然崇拝に由来している八百万の神であり、はっきりいってバラバラの個人商店だった。それが天照大神は大日如来、八幡神は阿弥陀如来、薬師如来、素戔嗚尊は薬師如来、大国主命は大黒天・・・となったのである。大日如来は曼荼羅の中心にいる仏である。その廻りを仏たちが整然と秩序正しく並んでいる。日本の神々は、仏教をもとに秩序づけられたのである。体系づけられたといってもよい。ここに、個人商店主であった日本の神々は、システム化された大企業の役員になっていくことになった。
<野澤の解答例>
A神々への信仰は自然崇拝に由来し、元来柔軟であった上に、古墳が担ってきた氏神への祭祀等を仏教寺院が負うことができたから。(60字)
B奈良時代には、神宮寺の建立や神前での読経といった神仏習合の風潮が見られ、平安時代前期には僧形の神像彫刻が盛んに作られた。その後、神仏習合はさらに進んで本地垂迹説が生まれ、柔軟であった神々への信仰は、仏教をもとに体系づけられるようになった。(120字)
なお、実教の教科書には、「奈良時代のなかごろから、古くから信仰されてきた日本お神々が仏教による救済を求めているという考えや、また神々は仏法を守る護法善神であると考える神仏習合の思想」、「(僧形八幡神像は)神が仏に救済を求めている姿」という記述がある。これらを用いて説明してもよい。
<参考>
B奈良時代前期には、神社の境内に神宮寺を建てたり、神前で読経するなど神仏習合の動きが始まった。平安時代前期には、神が仏教に帰依して、僧形の神像彫刻もつくられるようになった。その後、神々は仏がこの世に現れた仮の姿を考える本地垂迹説が生まれた。(河合塾)
B 奈良時代に神仏習合思想が現れ,仏教による救済を求める神々のために神前読経が行われ,神々は仏教を守るという考えから神宮寺が建立された。平安時代前期には仏像に倣い僧形八幡神像のような神像が作られ,中期には仏を神の本地とする本地垂迹説が生まれた。(代々木ゼミナール)
ぼくとしては、東大の資料に「仏が人々を救うためにこの世に仮に姿を現したものとする考え」と書かれているものを「本地垂迹説」と記したのだから、本地垂迹説の意味を重ねて説明する必要はないと考えている。
〇「東大チャート」テキスト(pdf)
〇「東大チャート」空欄補充(pdf)
2015.2.28
2016.6.14 加筆修正
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