2014年度 『東京大学 その4』

憲法発布と民権派の反応
  

【4】次の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

1889年2月、大日本帝国憲法が発布された。これを受けて、民権派の植木枝盛らが執筆した『土陽新聞』の論説は、憲法の章立てを紹介し、「ああ憲法よ、汝(なんじ)すでに生まれたり。吾(われ)これを祝す。すでに汝の生まれたるを祝すれば、随(したが)ってまた、汝の成長するを祈らざるべからず」と述べた。さらに、7月の同紙の論説は、新聞紙条例、出版条例、集会条例を改正し、保安条例を廃止すべきであると主張した。

設問
A 大日本帝国憲法は、その内容に関して公開の場で議論することのない欽定憲法という形式で制定された。それにもかかわらず民権派が憲法の発布を祝ったのはなぜか。3行以内で説明しなさい。
B 7月の論説のような主張は、どのような根拠にもとづいてなされたと考えられるか。2行以内で述べなさい。


<考え方>
Aについて
求められているのは、
(1) 民権派が憲法の発布を祝った理由を書く
(2) 憲法は欽定憲法であったにも関わらず祝った理由を書く
(3) 90字で書く

ことである。

 本文に「憲法の章立てを紹介し」とあることから、彼らは憲法の内容を知っている。内容を知った上で祝い、そして「成長するのを祈る」と述べている。
 ここから、民権派が
憲法の規定の中で、自分たちの主張を実現できる可能性を見いだしていることがうかがえる。
 そこで答案は、「憲法の〇〇という内容を民権派は評価したから」という形が考えられる。

 それでは、教科書(山川『詳説日本史』)から、憲法の内容で民権派に有利となるものを探していこう。

ア 立法・行政・司法の三権が分立し、それぞれが天皇を補佐するとされた。
イ 帝国議会は、対等の権限を持つ貴族院と衆議院からなっていた→国民の公選による議会が設置された。
ウ 多くの制限はあっても、議会の同意がなければ予算や法律は成立しなかったから、政府は議会(特に衆議院)との間で妥協をはかるようになり、政党の政治的影響がしだいに増大していった。
エ 日本国民は、法律の範囲内で所有権の不可侵、信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由が認められた。
オ (国民は)帝国議会での予算案・法律案の審議を通じて国政に参与する道もひらかれた。
カ 日本はアジアではじめての近代的立憲国家となった。

 これらを90字でまとめたい。


Bについて
これは解釈に迷った。
問われているのは「
新聞紙条例、出版条例、集会条例を改正し、保安条例を廃止すべき」であると主張する根拠なのだが、2通りの解釈ができる。

解釈1 「新聞紙条例、出版条例、集会条例、保安条例」を一括して、要はこれらの弾圧法令を改廃すべきだと主張した根拠を書く

解釈2 「新聞紙条例、出版条例、集会条例」は改正を主張する一方で、「保安条例だけ」は廃止すべきだと
主張した根拠、つまり保安条例だけが別扱いであった根拠を書く

のかである。

 しかし、解釈2では受験生は書けないだろうと思った。
 仮に、新聞紙条例、出版条例、集会条例は、教科書の本文中にある「法律内で認められた言論・出版・集会・結社の自由」であるから、禁止した法律を改正すべきだが、保安条例は東京からの追放なので、この規定に当てはまらないから廃止すべきだと主張したと書いたとする。
 けれども、大日本帝国憲法第22条で「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス」と居住・移転の自由も認められているので、条件は同じなのである。

 そこで解釈1で答案を作成することにした。

求められているのは
(1) 民権派が、新聞紙条例、出版条例、集会条例を改正し、保安条例を廃止すべきであると主張する根拠を書く
(2) 60字で書く

 これは、教科書の本文にもある通り、「日本国民は、法律の範囲内で所有権の不可侵、信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由が認められていた(先述の通り、居住・移転の自由も認められていた)。」
 そのため、これらの弾圧法令の改廃は立法機関である議会の審議で改廃が可能であった。
 憲法は国民の互選からなる衆議院を設置を定めているため、国民が法律審議によって法を改廃することは可能であった。つまり、弾圧法令は、法律で定める限り憲法違反とはならない。「法律でダメだとなればダメ」なのである。しかし、逆に「法律でOKならばOk」となる。だから、民権派は、議会の審議を通じてそうすべきであると考えたのである。

 この内容を60字でまとめればよい。
 

<野澤の解答例>
A憲法は三権分立を定め、国民の権利を保障し、公選による衆議院を設置した。予算や法律の成立には議会の同意が必要とされたため、国民は議会での審議を通じて国政に参与する道が開かれたから。(90字)
B言論・出版・集会などの自由は、法律の範囲内で認められており、弾圧法令の改廃を議会の審議によってなすべきだと考えたから。
(60字)


<参考>
代々木ゼミナール
A 民権派は万世一系を根拠とする天皇の統治を歓迎するとともに、運動で要求した議会の開設と参政権が認められ、国民の権利も保障されたので、はじめて手にした憲法の発布を祝った。
B 憲法の条文で言論・集会の自由が認められていたが、法律の範囲内という制約が加わっていたので、法の改正・廃止を主張した。

河合塾
A憲法制定により民権派が望んでいた公選制による議会政治が実現し、予算や法律制定など議会の権限行使を通じた憲法の運用によって、世論を反映した政治を実現していくことが可能だと考えたから。
B憲法によろ法律の範囲内で言論・集会・結社などの自由が認められ、さらに、衆議院によって条例の改正・廃止が可能となった。


駿台予備校
A民定憲法ではないが憲法が制定され、貴族院が衆議院の立法権を制約するものの、法律や予算の審議権を持つ帝国議会の設置が規定された。また、法律の範囲内ではあるが臣民の権利も認められた。
B憲法では、言論・集会・結社や移転の自由を規定しているので、憲法違反となる保安条例などの治安立法は廃止すぺきと主張した。


 いつも言っていることだが、東大の問題は何が正答なのかはわからない。それが面白いのであり、だからこそ、予備校が示す模範解答に対して、ぼくの解答案との違いは示しても評価は避けてきた。
 しかし、今回は、今までになく納得できない部分がある。主義に反するが少し触れさせてもらいたい。

 
代々木の模範解答について。A「東洋大日本国国按案」で革命権を記した植木枝盛は「万世一系を根拠とする天皇の統治を歓迎」したから祝ったのだろうか。Bに「自由が認められていたが、法律の範囲内という制約が加わっていたので、法の改正・廃止を主張した。」とあるが、この「制約が加わっていたので改正・廃止を主張した」という文は、逆の意味に採れる。法律の範囲内とされていたからこそ、議会で法律を変えることが出来ることを根拠にしたのではないのか。
 
駿台について。Bに「憲法では、言論・集会・結社や移転の自由を規定しているので、憲法違反となる保安条例」とあるが、これも全く逆ではないのか。先述の通り、憲法では、言論・集会・結社や移転の自由は「法律の範囲内」であり、保安条例などの弾圧法令も、法律でダメだと言えばダメであり、憲法の範囲内、つまり憲法違反ではない。逆に法律でOKならば、OKになる。だからこそ、議会でこれをOKにすることを主張したのではないか。


 
 
2014.9.20


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