2014年度 『東京大学 その2』

室町時代の武士と文化の地方伝播
  

【2】次の(1)?(4)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) 応仁の乱以前、遠国を除き、守護は原則として在京し、複数国の守護を兼ねる家では、守護代も在京することが多かった。乱後には、ほぼ恒常的に在京した守護は細川氏だけであった。
(2) 1463年に没したある武士は、京都に在住し、五山の禅僧や中下級の公家と日常的に交流するとともに、立花の名手池坊専慶に庇護を加えていた。
(3) 応仁の乱以前に京都で活躍し、七賢と称された連歌の名手には、山名氏の家臣など3人の武士が含まれていた。
(4) 応仁の乱以後、宗祇は、朝倉氏の越前一乗谷、上杉氏の越後府中、大内氏の周防山口などを訪れ、連歌の指導や古典の講義を行った。

設問
 応仁の乱は、中央の文化が地方に伝播する契機になったが、そのなかで武士の果たした役割はどのようなものであったか。乱の前後における武士と都市との関わりの変化に留意しながら、5行以内で述べなさい。

<考え方>

求められているのは、
(1) 応仁の乱が、中央の文化が地方に伝播する契機となったことについて書く
(2) 中央の文化が地方に伝播する上で、武士の果たした役割を書く
(3) 応仁の乱前後における武士と都市の関わりの変化に留意しながら書く
(4) 150字で書く

ことである。

(1)から、応仁の乱以前、守護や有力守護の守護代、家臣は在京していた→乱後は、任国に下り、在国することが恒常的となった。

(2)から、京都に在住していた武士(守護かその家臣)は、身分を超えた文化の担い手であり、新しい文化人のパトロン(保護者・庇護者)でもあった。

(3)から、乱以前の京都では、武士も新しい文化の担い手として高く評価されていた。つまり、
武士自身も京都の文化を身につけた文化人であった

(4)から、応仁の乱後、京都の一流文化人(宗祇)が、任国に下った有力守護の城下町(一乗谷、府中、山口)に招かれ、京都の文化を伝えた。

 一方、教科書(山川『詳説日本史』)には、室町時代の文化と、その地方への伝播についてどのようの記されているのか。

  幕府が京都におかれたことや東アジアとの活発な交流にともなって、武家文化と公家文化、大陸文化と伝統文化の融合が進み〜広い基盤を持つ文化が生み出された。(略)中央文化と地方文化の融合も進み〜、この時代に中央・地方を問わず、武家・公家・庶民の別なく愛好され、洗練さえながら、その基礎を確立していった(P.133)

 応仁の乱により京都が荒廃すると、京都の公家たちが地方の戦国大名をたより、ぞくぞくと地方へ下った。地方の武士たちも中央の文化への強いあこがれから、積極的にこれをむかえた。とくに日明貿易で繁栄していた大内氏の城下町山口には、文化人が多く集まり、儒学や和歌など古典の講義がおこなわれ、書籍の出版もなされた。(P.139)


 以上をまとめると

ア 応仁の乱以前:守護や有力守護の家臣など、多くの武士が在京していた。京都では武家文化と公家文化、大陸文化と伝統文化の融合が進んだ。武士は身分を超えた文化の担い手であり、また新しい文化の保護者であった。また、京都の文化人としても高く評価される者もいた。

イ 応仁の乱が契機:ほとんどの守護やその家臣は任国へ下り、乱後は在国して城下町にいることが恒常的になった。

ウ 応仁の乱:自らも文化人であった武士たちが、地方に京都文化を伝えるとともに、京都の荒廃により、地方へ下った公家や文化人たちを積極的にこれを受け入れた。城下町には多くの文化人が招かれ、京都の文化が伝えられ、出版物も刊行された。
  
 これを150字にまとめればよい。

 またしても
東大はニクイ!と思うのは、教科書には、応仁の乱の結果、地方へ下った京都の文化人によって、文化が地方へ伝播したとしか書かれていないが、与えられた資料をきちんと読むと、武士自身が京都の文化人であり、彼らが地方に住むようになったことも、京都の文化を地方へ伝播させる要因となったことがわかる。

 ぼくとしては、
この読み取りが、今回のボーナスポイント(加算点)ではないかと思う。

 さて、最後に注意しなければならないのは、応仁の乱が契機であったことが分かるように書くことである。
 そのため、ぼくは「乱以前」→「契機」→「乱以後」とはっきりと分かるよう答案を作成した。


<野澤の解答例>
応仁の乱以前、守護やその家臣など多くの武士が在京していた。京都では文化の融合が進み、武士は身分を超えた文化の担い手であり保護者でもあった。乱により、ほとんどの守護は任国へ下り、乱後は在国することが恒常的になった。彼らは京都の文化を地方にもたらすとともに、優れた文化人を城下町に招き、さらに発展させた。(150字)


<参考>
代々木ゼミナール
室町時代の武士は、文化の重要な担い手であり、保護者でもあった。応仁の乱以前は、京都が文化の中心であり、在京した守護大名やその家臣が公家や五山僧との交流で芸能を学んだ。乱後は、荒廃した京都から流出した文化人が諸国を巡回し、帰国した武士と旧交を温めつつ戦国大名の庇護を受けたため、各地に小京都が誕生した。

河合塾
京都には守護・守護代やその家臣など多くの地方武士が在住し、公家や僧侶と交流して、連歌など中心の文化の担い手となっていた。応仁の乱で京都が荒廃すると、彼らがそれぞれの領国に下って中央文化を伝えた。有力大名は城下町を形成し、公家や連歌師などの文化人を招いて保護を加え、城下町を拠点として文化を発展させた。

駿台予備校
守護など在京した武士は、公家文化や禅宗文化の影響を受け、将軍足利義満も猿楽能など民衆文化を保護し、北山文化と呼ばれる独自の文化を形成した。応仁の乱により京都が荒廃すると、城下町を形成した戦国大名は、地方へ逃れた公家や僧侶を保護し、文化を受容したので、連歌師の活動と相まって、文化の地方普及を促進した。

 

 代々木と河合塾は、ぼくがボーナスポイントだと考える「地方へ戻った武士自身が文化の伝播に貢献した」という部分をやはり書いている。駿台はそれがない分、足利義満とか猿楽能とか連歌とか具体的な語句が多い。ぼくとしては、問われているのは、武士が文化の地方伝播に果たした役割であって、具体例は必要ないと思うが、実際のところは分からない。
 問われている都市を、ぼくと河合塾、駿台は城下町としたが、代々木はさらにひねって「小京都」としている。「あ〜、なるほどな」と思った。
 
 
2014.9.16


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