2013年度 『東京大学』

 とりあえず、速報の形で作成しました。詳しい解説は、追ってUPしていきます。

第1問
高句麗との対立の中、朝鮮半島南部をめぐる軍事上の立場を有利にするために中国皇帝の権威を借りる一方、有力豪族を抑えて九州から関東までを勢力下に治め、政権の性格を豪族の連合から「天下」を支配する大王へ豪族たちが服属する形へと変化させた。また渡来人の技術を用いて政権の組織を整えた。この結果倭王の権威が向上し、中国の冊封を受ける必要のない支配体制が整う要因となった。(180字)
下線部別解:このことは、古代国家が中国中心の国際秩序とは異なる独自の国家意識を持つ要因となった(180字)


・高句麗との対立の中で、朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場を有利にするため中国皇帝の権威を借りる
←資料(1)+山川「詳説 日本史」(以下教科書)P22.L20〜23.L6
・渡来人がもたらす技術を用いて政権の組織を整えた←資料(4)+教科書P23.L8〜24.L3
・有力豪族を抑えて九州から関東までを勢力下に治め、政権の性格を豪族の連合から「天下」を支配する大王へ豪族たちが服属する形へと変化させた。
←資料(2)+教科書P25.L10+P.27.L3
・この結果倭王の権威が向上し、中国の冊封を受ける必要のない支配体制が整う要因となった。←問題文の「治天下大王」+資料(1)+教科書P.30.L17〜L.18
・このことは、古代国家が中国中心の国際秩序とは異なる独自の国家意識を持つ要因となった。東大過去問1994年度第1問(すみません。ある意味反則です。また詳しく説明します。)

第2問
A自らを蝦夷や北方交易を支配する王として威厳を示す一方で、朝廷に対しては貢物を納め、その支配下にあるという姿勢をとった。(60字)
B後白河法皇が、頼朝の強大化を恐れて追討を図る一方で、奥州藤原氏は頼朝政権から自立性を保ち、朝廷とも直接結びついていた。(60字)
C平氏政権の武士の編成は、私的なものに過ぎなかったのに対し、頼朝政権は実力で東国を平定して政治基盤とするとともに、地頭補任の権限を公的に獲得し、支配の根本となる武士との主従関係を制度として成立させた。(90字)


・自らを蝦夷や北方交易を支配する王として威厳を示す←資料(1)
・朝廷に対しては貢物を納め、←資料(5)
・その支配下にあるという姿勢をとった。←資料(1)
    

・後白河法皇が、頼朝の強大化を恐れて追討を図る←教科書P.89.L17〜18
・奥州藤原氏は頼朝政権から自立性を保ち、朝廷とも直接結びついていた
←資料(3)、資料(5)=「奥州の貢物は奥州藤原氏から京都へ直接納められていた」


・平氏政権の武士の編成は、私的なものに過ぎなかった←資料(4)
・頼朝政権は実力で東国を平定して政治基盤とするとともに、資料(2)+教科書P.89.L12〜16
・地頭補任の権限を公的に獲得し、←資料(3)+教科書P.89.L18〜20
・支配の根本となる武士との主従関係を制度として成立させた。←教科書P.91.L5〜8


第3問
A大名には武芸に励んで幕府を軍事的に支えることを、天皇には中国や日本の古典から先例を学んで、儀礼に従事することを求めた。(60字)
B平和が続いたことで、藩政の安定が図られるようになり、武士は為政者としての道徳と実務能力が求められ、主従関係も個人的なものから、家臣の家が主家に代々奉公するものへと変化した。(90字)

Aは資料(1)、(2)からそのまま。

・平和が続いたことで、藩政の安定が図られるようになり、←教科書P.179.L17〜19
・武士は為政者としての道徳と実務能力が求められ、←資料(4)+教科書P.179L19〜20
・主従関係も個人的なものから、家臣の家が主家に代々奉公するものへと変化した。←資料(3)+教科書P.179L12〜14


第4問
A従来は譜代大名・旗本のみが幕政の中枢を担う家格による人事がなされていたが、アロー戦争を背景に安政の五カ国条約の締結を余儀なくされる国際情勢の中、親藩・外様からも老中を任命し、幕臣以外でも有能な者を登用する挙国一致の体制づくりを目指した。(119字)
B橋本の構想は、幕藩体制を前提とした武士身分中心の体制であったが、天皇中心の中央集権的な国家となり、大日本帝国憲法が整えられて、身分に関係なく政治参加が可能な国家体制となった。(90字)


・従来は譜代大名・旗本のみが幕政の中枢を担う家格による人事がなされていた←教科書P.163というより常識
・アロー戦争を背景に安政の五カ国条約の締結を余儀なくされる国際情勢の中、←教科書P.229L13〜16
・親藩・外様からも老中を任命し、幕臣以外でも有能な者を登用する←資料文
・挙国一致の体制づくりを目指した。←教科書P.229L3

B
・橋本の構想は、幕藩体制を前提とした武士身分中心の体制であった←資料文に「第一に将軍の後継を立て、第二に我が公〜」+「大名の家来や浪人であっても」
・天皇中心の中央集権的な国家となり、大日本帝国憲法が整えられて、身分に関係なく政治参加が可能な国家体制となった
←1858年から30年後は1888年。明治憲法発布1年前だが、ここは帝国憲法と衆議院議員選挙法。そして内閣制度の発足など、「幕藩体制のもとではなく、天皇中心の中央集権国家となった」ことに関する内容があればよいと考える。

2013.2.28

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