2012年度 『東京大学 その4』

中国およびソ連からの日本人の復員・引揚

【4】次の表は、日本の敗戦から1976年末までの、中国およびソ連からの日本人の復員・引揚者数をまとめたものである。この表を参考に、下の(1)・(2)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

    

(1) 第二次世界大戦の終結ののち、日本の占領地や植民地などにいた日本人軍人・軍属の復員とそれ以外の一般邦人の引揚げが始まった。多くの日本人は終戦の翌年までに帰還したが、中国とソ連からの帰還は長期化した。
(2) ソ連政府は1950年に「日本人捕虜の送還を完了した」と宣言し、日本人の送還を中断した。その後、日ソ両国の赤十字社の交渉を通じて1953年から帰還が再開されたが、日本側の要望通りには進展しなかった。ほとんどの日本人の帰還が実現したのは1956年のことであった。

設問
A 表に見るように多数の一般邦人が、中国に在住するようになっていたのはなぜか。20世紀初頭以降の歴史的背景を、4行以内で説明しなさい。
B ソ連からの日本人の帰還が、(2)のような経過をたどった理由を、当時の国際社会の状況に着目して、2行以内で説明しなさい。


<考え方>
Aについて。
(1) 中国に一般の日本人が在住するようになった
(2) 20世紀初頭以降の歴史的背景を書く。
(3) 4行(120字)以内で書く。


 20世紀以降だから1900年代である。1900年代以降の日本の中国進出の流れで、教科書に記されているものを順に挙げていけばよい。
 これは、簡単に思いつきそうだが、東大の問題を解くときの鉄則で、必ず与えられた資料を確認しなければならない。
 表を見ると、中国東北部、つまり満州ではそれ以外の場所に比べて、軍人・軍属より圧倒的に一般邦人の数が多い。
 つまり、満州以外は戦争(日中戦争)によるものだが、満州は一般人の入植だということがうかがえる。
ア 日露戦争→ポーツマス条約で旅順・大連の租借権と、南満州鉄道の敷設権を得た。
イ 第一次世界大戦→山東省の権益を獲得した。(山東出兵が、日本人居留民の保護を名目にしていたことからもわかる。)
ウ 第一次世界大戦ののち、巨大紡績会社は中国に紡績工場をつぎつぎに建設した(在華紡)。
(山川『詳説 日本史』P.317)
エ 満州国建国によって、満州の経営・開発に乗り出した。(山川『詳説 日本史』P.324)
オ 日産・日窒などの新興財閥が台頭し、軍と結びついて満州・朝鮮へも進出していった。(日産コンツェルンは、満鉄にかわって満州の重化学工業を独占支配した。)
(山川『詳説 日本史』P.325)

 この後、日中戦争による占領地の拡大もあるとは思うが、問われていることはあくまで一般邦人が在住した理由なので、以上をまとめればよいと考える。表を読み取って、満州へ一般邦人が多く入植していたことに気付いていることを強調したい。


Bについて。
(1) ソ連からの日本人の帰還の経緯について、
(2) ソ連政府は1950年に「日本人捕虜の送還を完了した」と宣言した国際社会の状況
(3)  1953年から帰還が再開した国際社会の状況
(4) 1956年年に日本人の帰還が実現した国際社会の状況
(5) を、2行(60字)以内で書く。


 これは、正直言ってぼくも知らなかった。ということは、多分、受験生は誰も知らない。つまりは、与えられている資料をもとに考えたら解ける問題である。

ア 
1950年に起こった、ソ連との関係が悪化する国際社会の状況は、朝鮮戦争勃発である。
イ と言うことは、
1953年にソ連との関係がやや改善された国際社会の状況は、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれたことだと考えられる。
ウ そして
1956年というと、ソ連との国交が正常化した年である。

 これ、そのままでよいのではないかと考える。
 

<野澤の解答例>
A日露戦争の結果、南満州鉄道の敷設権等を獲得し、第一次世界大戦では山東省の権益を得た。また産業の発達にともない紡績会社による在華紡の建設や、新興財閥の進出が行われた。さらに満州国建国によって、満州の経営・開発が本格化し、多くの人が入植した。(120字)

B帰還は、朝鮮戦争の勃発によって中断されたが、停戦協定の締結で再開された。そして日ソ国交正常化にともないほぼ実現した。
(59字)


2012.3.12

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