2012年度 『東京大学 その3』

江戸時代の農村の休日
  

【3】次の(1)〜(4)の文章は、江戸時代半ば以降における農村の休日について記したものである。これらを読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

(1) 村の定書をみると、「休日(やすみび)」「遊日(あそびび)」と称して、正月・盆・五節句や諸神社の祭礼・田植え・稲刈り明けのほか、多くの休日が定められている。その数は、村や地域によって様々だが、年間30〜60日ほどである。

(2) 百姓の日記によれば、村の休日以外にそれぞれの家で休むこともあるが、村で定められた休日はおおむね守っている。休日には、平日よりも贅沢な食事や酒、花火などを楽しんだほか、禁じられている博打(ばくち)に興じる者もいた。

(3) ある村の名主の日記によると、若者が大勢で頻繁に押しかけてきて、臨時の休日を願い出ている。名主は、村役人の寄合を開き、それを拒んだり認めたりしている。当時の若者は、惣代や世話人を立て、強固な集団を作っており、若者組とよばれた。

(4) 若者組の会計簿をみると、支出の大半は祭礼関係であり、飲食費のほか、芝居の稽古をつけてくれた隣町の師匠へ謝礼を払ったり、近隣の村々での芝居・相撲興行に際して「花代」(祝い金)を出したりしている。

設問
A 当時、村ごとに休日を定めたのはなぜか。村の性格や百姓・若者組のあり方に即して、3行以内で述べなさい。

B 幕府や藩は、18世紀末になると、村人の「遊び」をより厳しく規制しようとした。それは、なにを危惧したのか。農村社会の変化を念頭において、2行以内で述べなさい。

<考え方>

Aについて。
(1) 村ごとに休日を定めた理由を書く
(2) 村の性格に即して書く
(3) 百姓・若者組のあり方に即して書く
(4) 90字で書く


(1)の村ごとに休日を定めた理由は、教科書の記述から思いつくのではないか。
田植え・稲刈り・脱穀・屋根葺きなどに際して、村民は結・もやいなどとよばれる共同作業を集中的におこなって、労働や暮らしを支え合った。」(山川『詳説 日本史』P.167脚注)
 つまり、「田植えや稲刈りなどに際して、共同作業を集中的におこなって労働や暮らしを支え合うために、農作業の日程にあわせて共通の休日を定めた」のである。
 この結・もやいという相互扶助は、(3)の百姓のあり方でもある。

 では、(2)の村の性格とは何か。
村は、名主や組頭・百姓代からなる村役人(村方三役)を中心とする本百姓によって運営され、入会地の共同利用、用水や山野の管理、治安や防災などの仕事が自主的にになわれた。これらの経費は村入用とよばれ、村民が共同で負担しあった。(略)幕府や諸藩・旗本は、このような村の自治に依存して、はじめて年貢・諸役の割り当てや収納を実現し、村民を掌握することができた」(山川『詳説 日本史』P.167)
 「名主など村役人を中心とした自治で運営されている」である。

 そして(3)の百姓・若者組のあり方について。
 百姓のあり方は、「共同作業を集中的におこなう相互扶助」と言えるので、ここは若者組のあり方(役割)を考える。
 資料から、若者組とは、「惣代や世話人を立て」て作られている「強固な集団」であり、その「会計簿をみると、支出の大半は祭礼関係」であることから、「祭礼の中心的役割を担っている」ことがわかる。

 教科書の内容と資料の読み取りで答案を作成するという原則に従えば、これをつなげて答案を作成しなければならない。ただ、受験生のほとんどが学習している「現代社会」や「倫理」の授業で習う知識を加えたい。

 年中行事というものがある。毎年、同じ時期に行われる「ハレの日」のことである。これに対し、人生の節目に訪れる「ハレの日」を通過儀礼という。七五三や元服(成人儀礼)などがこれにあたる。
 そして「年中行事の中でも祭礼を中心として、1年間が組み立てられている。そして祭には、集団の団結をはかるとともに、秩序の再構築という意味がある。」と習ったはずだ。

 ぼくも授業では「たとえば学校行事でも、体育祭の日が決まって、それから他の日程が入る。体育祭では大声を張り上げ、跳ね回り、グループやクラス、学校の結束を高める。そして次の日からは、また日常の学校生活に戻る。つまり、祭で共同体のエネルギーを爆発させ、その後は、もとの秩序を再確認するのだ。」と教えている。
 祭(体育祭)を運営し、エネルギーを爆発させるのは生徒(若者)であり、彼らの要求は時にエスカレートする。それを、一部は認め、一部は却下して、全体の秩序を維持するのは校長(名主)をリーダーとする教員(村役人)の役割である。
 今回の(3)(4)の資料と全く同じ構造だと言える。
 つまり、「村(共同体)の結束の中心となる祭礼を若者組が担うと同時に、祭礼は村(共同体)の秩序維持をはかるためのもの」であった。
 
 以上を90字でまとめたい。
 

Bについて
(1) 18世紀末には
(2) 幕府や藩が、 村人の「遊び」を厳しく規制しようとしたのは、何を危惧したためかを書く
(3) 農村社会の変化を念頭のおいて書く
(4) 60字で書く


 これは意外に難しいとぼくには思える。ここでは、ぼくがどのように答案の骨子を組み立てていったかを順を追って記したい。 
 最初に、「18世紀末」「厳しく規制」ですぐに思い浮かんだのが、寛政の改革だった。寛政の改革と聞くと「きびしい統制や倹約令は民衆の反発を招いた。」(山川『詳説 日本史』P.205)であり、この流れだろうと見当をつけた。イメージとしては

 寛政の改革→倹約令・贅沢禁止→なぜ?→農本主義の立場←→実際は、貨幣経済の進展で百姓の階層分化→村方騒動=村の秩序の崩壊
   ↑
 天明の飢饉=打ちこわし・百姓一揆=惣百姓一揆=広域的一揆

 イメージにそって、資料から結びつくものを探した。
 倹約(贅沢の禁止)に結びつくものを資料から探すと、資料(2)に「贅沢な食事や酒、花火などを楽しんだほか、禁じられている博打(ばくち)に興じる者もいた。」とある。まずここで「贅沢の禁止」は間違いないと考えた。しかも博打とくれば風俗も乱すし博徒が出入りすれば治安も悪くなる

 貨幣経済の進展については資料(4)の「若者組の会計簿」でずばり書かれている。
 この時代、貨幣経済の進展にともなって百姓が階層分化したことについては、教科書(『詳説 日本史』のP.199〜200)に
「村々では一部の有力な百姓が、村役人をつとめて地主手作をおこなう一方で、手持ちの資金を困窮した百姓に利貸して村の内外で質にとった田畑を集めて地主に成長し、その田畑を小作人に貸して小作料を取り立てた。彼らは農村地域において商品作物生産や流通・金融の中心となり、地域社会を運営するにない手となった。こうした有力百姓を豪農とよぶ。一方、田畑を失った小百姓は小作人となるか、年季奉公や日用稼ぎに従事し、いっそう貨幣経済にまき込まれていった。こうして村々では、自給自足的な社会のあり方が大きく変わり、村役人を兼ねる豪商と小百姓や小作人らとのあいだの対立が深まった。そして村役人の不正を追及し、村の民主的で公正な運営を求める小百姓らの運動(村方騒動)が各地で頻発した。」
と記されている。

 村の秩序の崩壊に結びつく資料を探すと、資料(3)に「名主の日記によると、若者が大勢で頻繁に押しかけてきて」とある。
 先述の教科書の「村々では、自給自足的な社会のあり方が大きく変わり、村役人を兼ねる豪商と小百姓や小作人らとのあいだの対立が深まった。そして村役人の不正を追及し、村の民主的で公正な運営を求める小百姓らの運動(村方騒動)が各地で頻発した。」の部分も、秩序の崩壊を表している。

 広域的一揆に結びつく資料を探すと、資料(4)に「芝居の稽古をつけてくれた隣町の師匠へ謝礼を払ったり、近隣の村々での芝居・相撲興行に際して「花代」(祝い金)を出したりしている。」と書かれている。

 惣百姓一揆は、17世紀末からのことであって、問われている18世紀末とは時代が違うと思われるかもしれないが、17世紀末から「代表越訴型一揆」から「惣百姓一揆」へと形態が変化したのであり、代表的な惣百姓一揆の一つである元文一揆は1738年(18世紀)である。

 これは当たりかな、と正直うれしくなった。

 つまり、経済面では、贅沢によって出費が増大し、貨幣経済の進展の中での百姓の階層分化がさらに広がる恐れがあること。
 治安面では、博徒の出入りによって治安が悪くなることや、若者組が村役人に対立するなど村の秩序が崩壊すること。そして村を越えた結びつきが広域な一揆につながる恐れがあること
である。
 
 これを60字でまとめたい。

<野澤の解答例>

A村は自治的に運営され、その結束と秩序維持の軸となる祭礼を若者組が担った。田植えなど共同作業を集中的に行って労働や暮らしを支え合うために、農作業の日程にあわせて共通の休日を定めた。(90字)

B贅沢等で出費が増大し、百姓の階層分化が拡大して村の秩序が崩壊したり、村を越えた結合が広域一揆につながることを危惧した。
(60字)

 
 教科書にはよく「一般の百姓の衣服は、麻(布)や木綿の筒袖がふつうである。食事は日常での主食として米はまれで、麦・粟・稗などの雑穀が主とされ、住居も萱やわら葺きの粗末な家屋で、衣食住のすべてにわたって貧しい生活を強いられた。」(山川『詳説 日本史』P.168)とあるし、時代劇でもたいていは町人の豊かさと対比して「清く・貧しく・美しく(?)」描かれるので、江戸時代の百姓はずっと貧しかったと思いがちである。

 しかし、「17世紀に農業を中心に多分野にわたって著しく発展した生産活動は、その後も引き続き拡大した。(略)また村々にも貨幣経済が浸透し、商品作物の生産や農村家内工業も広がって、新たな冨が都市ばかりではなく農村にもしだいに蓄積されていった。」(山川 『詳説 日本史』P.197)ともあるように、農村はいつまでも貧しかったわけではない。
 「(金肥が利用されるようになった。)こうして反あたりの収穫量も上昇し、せまい耕地に労働力を多くつぎ込んで高い収益をあげる小農経営が発展した。」(実教『日本史B』P.201)とあるように、農村の生活レベルは江戸時代を通じて基本的には上昇している。ただし、そのことが本百姓の階層分化を招き、村方騒動などへもつながっていくことは知っての通りである。

 しかし、江戸時代半ば以降、年間の休日の数は今と余り変わらず、しかもきっちり休んでいること。また、酒や花火を楽しみ、芝居の稽古をつけてくれた隣町の師匠に謝礼までしているというのは、意外だったのではないか。(多くの日本史の図説には、江戸時代の農村の休日は載っているのだが、そこまで見ている受験生は少ないと思う。)
 だいたい「慶安触書」(今はその存在自体に疑義がでているが)に、「酒・茶を買い、のみ申す間敷候」とか「みめかたちよき女房成共、夫の事をおろかに存じ、大茶をのみ、物まいり遊山ずきする女房を離別すべし」とか「たば粉のみ申す間敷候」とか書いてあるのは、当時の百姓が、酒・茶・たばこを買っていたし、女房は物見遊山が好きだったからである。誰もやらないことを禁止したりはしない。

 東大は時に、こうした通説や思いこみに対して、「本当にそう?」という石を投げ入れるような問題を出すからおもしろい。


2012.3.4

東大入試問題indexへ戻る