【2】院政期から鎌倉時代にかけての仏教の動向にかかわる次の(1)〜(5)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。
(1) 院政期の天皇家は精力的に造寺・造仏を行った。白河天皇による法勝寺をはじめとして、大規模な寺院が次々と建立された。
(2) 平氏の焼き討ちにより奈良の寺々は大きな打撃をこうむった。勧進上人重源は各地をまわって信仰を勧め、寄付や支援を募り、東大寺の再興を成し遂げた。
(3) 鎌倉幕府の御家人熊谷直実は、法然が「罪の軽重は関係ない。念仏さえ唱えれば往生できるのだ」と説くのを聞き、「手足を切り、命をも捨てなければ救われないと思っておりましたのに、念仏を唱えるだけで往生できるとはありがたい」と感激して帰依した。
(4) 1205年、興福寺は法然の教えを禁じるように求める上奏文を朝廷に提出した。このような攻撃の影響で、1207年に法然は土佐国に流され、弟子の親鸞も越後国に流された。
(5) 1262年、奈良西大寺の叡尊は、北条氏の招きによって鎌倉に下向し、多くの人々に授戒した。彼はまた、京都南郊の宇治橋の修造を発願し、1286年に完成させた。
設問
A (1)と(2)では、寺院の造営の方法に、理念のうえで大きな相違がある。それはどのようなものか。2行以内で述べなさい。
B 鎌倉時代におこった法然や親鸞の教えは、どのような特徴をもっていたか、また、それに対応して旧仏教側はどのような活動を展開したか。4行以内で述べなさい。
<考え方>
Aについて。
求められているのは、
(1) 資料(1)と(2)の間での相違について書く
(2) 寺院造営の方法についての理念の相違について書く
(3) その相違とはどのようなものか書く
(4) 60字で書く
ことである。
(1)は院政期の法勝寺に代表される六勝寺である。これらの寺院がどのように方法で造営されたか。山川の『詳説 日本史』P.81に「3上皇は仏教をあつく信仰し、出家して法皇となり、六勝寺など多くの大寺院を造営し堂塔・仏像をつくって盛大な法会をおこない、(略)これらの費用を調達するために成功などの売位・売官の風がさかんになり、政治の乱れは激しくなった。」とあるように、これは院近臣となる中・下級貴族(受領層)の成功によって造営されている。
それに対して(2)は、そのまま資料中に「勧進上人重源は各地をまわって信仰を勧め、寄付や支援を募り」とあるように、「勧進上人の努力によって各地の広い階層の人々からの協力(寄付や支援)で造営されている。」これについては、(重源が資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となったことは、『詳説 日本史』にも書かれている。)
これをそのままつなげれば60字になる。
Bについて。
求められているのは、
(1) 法然や親鸞の考えの特徴を書く
(2) それに対する旧仏教側の活動を書く
(3) 120字で書く
ことである。
(3)には、「法然が、罪の軽重は関係ない。念仏を唱えるだけで往生できる」と説いたと書かれており、いわゆる専修念仏の教えである。帰依した熊谷直実は鎌倉幕府の御家人であり、庶民だけではなく武士にも広がっていることが分かる。
山川の『詳説 日本史』のP.105に「法然の教えは摂関家の九条兼実をはじめとする公家のほか、武士や庶民にまで広まった」とあるように、彼の教えは広く受け入れられたのである。
(4)では、旧仏教側は、朝廷に対し法然の教えを禁じるように求めており、事実、法然・親鸞ともに弾圧されている。ではなぜ、旧仏教側は、法然の弾圧を求めたのか。
それはもちろん「専修念仏」であり、旧仏教のいう戒律を守ることなどを否定したためである。これは『詳説 日本史』のP.107に「こうした新仏教に共通する特色は、天台・真言をはじめ旧仏教の腐敗を批判し、ただ選び取られた一つの道(念仏・題目・禅)によってのみ救いにあずかることができると説き、広く武士や庶民にもその門戸をひらいた」と記されている。
(5)では、旧仏教側はただ法然を批判するばかりではなく、「多くの人々に授戒した」り、橋の修造を発願し、完成させるなどの「社会事業に取り組んだ」ことが記されている。
つまり、法然・親鸞を否定し、弾圧するばかりではなく、自身も積極的な宗教活動(人々への授戒や救済)を行ったわけである。旧仏教側の社会事業としては、叡尊の弟子忍性の「北山十八間戸」が思い浮かぶであろう。
ここまでをつないで120字にまとめればよい。
<野澤の解答例>
A(1)は中・下級貴族の成功によって造営されたのに対し、(2)では勧進上人の努力により、各地の広い階層の人々の協力で造営された。(60字)
B法然や親鸞は、念仏を唱えるだけで往生できると説いて、広く受け入れられた。戒律を守ることなどを否定された旧仏教側は、法然の教えを禁じるよう朝廷に弾圧を求める一方で、多くの人々に授戒したり、社会事業に取り組むなど、民衆の教化と救済に努めた。(119字)
こうやって答案を見ると、簡単に書けるように思えるかもしれない。実際、書いてあることは簡単である。しかし、東大の問題は「問われていることは何か」をはずさないようにしないと、「受験生として当然に持っている知識に振り回される」恐れがある。
今回も、「法然や親鸞の教えは、どのような特徴をもっていたか」と聞かれ、「法然は専修念仏、親鸞は悪人正機で煩悩の深い悪人こを阿弥陀仏は救ってくれると説いた」とか書きたくなる。
しかし、問われていることは、「法然や親鸞の教えの特徴」であり、これは「専修・選択・易行」であり、「旧仏教が説く戒律を守ることなど(自力作善)を否定する」ことである。
それに対して、旧仏教側は、法然らを弾圧する一方で、自身も宗教活動に力を入れたのである。
より要求されているものに近い答案を書くならば、「宇治橋の修造を発願」したのは、叡尊であっても、それに応じて完成させたのは、国家ではなく、修造に協力して働いた人々であるから、「自力作善を否定された旧仏教側は、逆に人々に戒律を守ることを勧め、橋の修造など作善への参加を求めた」のであった。
教科書でも『歎異抄』の史料中に「自力作善」という言葉は出てくるが、ここは教科書の文中に書かれているものと、与えられている資料の読み取りで書ける範囲ということで、解答例のような答案とした。
2011.3.5
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