2012年度 『東京大学 その1』

古代の軍事力の変化
  

【1】次の(1)~(4)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) 740年、大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こし、豊前・筑前国境の板櫃〔いたひつ〕河をはさんで、政府軍約6,000人と広嗣軍約10,000人が戦った。両軍の主力は、すでに確立していた軍団制・兵士制のシステムを利用して動員された兵力であった。
(2) 780年の伊治呰麻呂による多賀城襲撃の後、30年以上にわたって政府と蝦夷との間で戦争があいついだ。政府は、坂東諸国などから大規模な兵力をしばしば動員し、陸奥・出羽に派遣した。
(3) 783年、政府は坂東諸国に対し、有位者の子、郡司の子弟などから国ごとに軍士500〜1,000人を選抜して訓練するように命じ、軍事動員に備える体制をとらせた。一方で792年、陸奥・出羽・佐渡と西海道諸国を除いて軍団・兵士を廃止した。
(4) 939年、平将門は常陸・下野・上野の国府を襲撃し、坂東諸国の大半を制圧した。平貞盛・藤原秀郷らは、政府からの命令に応じて自らの兵力を率いて将門と合戦し、これを倒した。

設問
8世紀から10世紀前半に、政府が動員する軍事力の構成や性格はどのように変化したか。6行以内で説明しなさい。


<考え方>

求められているのは、
(1) 8世紀から10世紀前半(奈良時代から平安時代中期)の
(2) 政府が動員する軍事力の
(3) 構成や性格の
(4) 変化を
(5) 180字で

で述べる。つまり、どのように変化したかが分かるように書くのである。
 この手の東大の問題は、「
与えられている史料に過不足はない。」ので、与えられている資料から必要なことを読み取って、基本的な知識を加えれば答案は作成できるはずである。

 まず(1)~(4)の中で、
政府軍の軍事力の構成や性格に関する部分を抜き出そう。

(1)は、奈良時代の藤原広嗣の乱である。「豊前・筑前国境の板櫃河」とか見たこともない言葉が出てくるが、しっかりポイントを探す。「
両軍の主力は、すでに確立していた軍団制・兵士制のシステムを利用して動員された兵力であった。」
 何と、政府軍だけでなく広嗣軍も軍団制・兵士制のシステムで動員された兵士だったとは!
と驚くのは置いといて、ここは「8世紀は軍団制・兵士制のシステムで動員された兵力」であり、この「
軍団制・兵士制のシステムとは何か」を、教科書の知識で説明すればよい。
 山川の『詳説 日本史』には、「民衆の負担」の項で、「
律令国家では、民衆は戸主を代表者とする戸(郷戸)に所属する形で戸籍・計帳に登録され(略)兵役は、成人男性3~4人に1人の割で兵士に徴発され、兵士は諸国の軍団で訓練を受けた。」とある。
 つまり、「
8世紀の軍事力の構成は、戸籍に登録された公民から徴発され、軍団で訓練を受けた兵士」であった。

(2)は、8世紀末の伊治呰麻呂の乱について書いている。「蝦夷との長期にわたる戦争では
関東板東諸国)の兵士を東北(陸奥・出羽)へしばしば大規模に動員した。」が内容であるが、求められているのは「軍事力の構成・性格」である。しかし、東大は与えられている史料に過不足はない。」ので必ず意味がある。
 よく見て欲しい。(2)は
780年、続く(3)は783年である。(3)の「有位者の子、郡司の子弟などから国ごとに軍士500〜1,000人を選抜して訓練」は一見してすぐに「健児の制」の導入だと分かる。しかも丁寧に「政府は坂東諸国に対し、(略)軍事動員に備える体制をとらせた。」と書いてある。つまり(2)の資料のポジションは、軍団制を廃止して健児の制を導入するにいたる「理由」である。

 ここは(2)と(3)がセットで、「
8世紀末の蝦夷との長期にわたる戦争で軍事動員が大規模化する、健児制を採用するとともに、一部の地域を除いて公民による軍団・兵士制を廃止し、軍事力を再編成した。」のである。

(4)は、10世紀の将門の乱である。この時、乱を鎮圧したのが、平貞盛・藤原秀郷であるのは受験生なら誰もが知っている基本である。ここでのポイントは彼らが「
政府からの命令に応じて自らの兵力を率いて将門と合戦し、これを倒した。」ことである。この時の軍事力は平貞盛・藤原秀郷らの私兵(私的な兵力)であった。
 この段階で、答案の柱はできた。「
公民から編成された兵士→有位者や郡司の子弟からなる健児→武士団の私兵」である。
 ここで、平貞盛・藤原秀郷がどのような人物であったかを、教科書の記述からまとめればよい。ここは『詳説 日本史』の「地方の反乱と武士の成長」から、該当するところを抜き出す。「各地で紛争が発生した。その
鎮圧のために政府から押領使・追捕使に任じられた中・下級の貴族のなかには、そのまま在庁官人などになって現地に残り、有力な武士(もともとは朝廷に武芸をもって仕える武官をさしていた)となるものがあらわれた。彼らは、家子などの一族や郎党などの従者をひきいて、(略)、やがてこれらの武士たちは、連合体をつくるようになり、とくに辺境の地方では、任期終了後もそのまま任地に残った国司の子弟などを中心に、大きな武士団が成長しはじめた。なかでも東国(関東地方)では、良馬を産したため、機動力のある武士団の成長が著しかった。(この後、平将門の説明)」
 以上から、10世紀は、「
武芸に優れた中・下級貴族から成長した武士団の私的な兵力を、必要に応じて政府が動員した。」のである。

 以上を180字でまとめる。


<野澤の解答例>
 
8世紀、政府の軍事力は、戸籍に登録された公民から徴発され、軍団で訓練を受けた兵士で構成されていた。8世紀末の蝦夷との長期にわたる戦争で軍事動員が大規模化すると、健児制を採用するとともに、一部の地域を除いて公民による軍団・兵士制を廃止し、軍事力を再編成した。10世紀には、武芸に優れた中・下級貴族から成長した武士団の私的な兵力を、必要に応じて動員する形に変化した。
(180字)


2012.3.1

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