2007年度 『東京大学 その4』

【4】次の文章は、当時ジャーナリストとして活躍していた石橋湛山が、1921年のワシントン会議を前に発表した「一切を棄つる覚悟」の一部である。これを読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

 仮に会議の主動者には、我が国際的地位低くして成り得なんだとしても、もし政府と国民に、総てを棄てて掛るの覚悟があるならば、会議そのものは、必ず我に有利に導き得るに相違ない。たとえば(1)満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那(注1)が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか。またたとえば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保つに得ぬに至るからである。(中略)ここにすなわち「身を棄ててこそ」の面白味がある。遅しといえども、今にしてこの覚悟をすれば、我が国は救われる。しかも、こがその(2)唯一の道である。しかしながらこの唯一の道は、同時に、我が国際的位地をば、従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である。
(『東洋経済新報』1921年7月23日号)

(注1)当時、日本で使われていた中国の呼称

設問
A 下線部(1)の「満州を棄てる」とは何を棄てることを意味するのか。それを日本が獲得した事情を含め、2行(60字)以内で説明しなさい。
B 下線部(2)の「唯一の道」をその後の日本が進むことはなかった。その理由を、歴史的経緯をふまえ、4行(120字)以内で述べなさい。

<考え方>
 「鳩山内閣の次は、ほんの一瞬石橋湛山内閣がある。受験では石橋のキーワードは彼が主宰であった『東洋経済新報』であるが、この石橋湛山、最近柳宗悦と並んで戦前朝鮮の植民地支配に反対した人物として、受験問題でも時々見られる。(『現代編4 高度経済成長以後の日本』参照)

 さて、Aについて。これは問題ない。ワシントン会議前で日本が棄てるべきだという満州とは、ポーツマス条約で得た南満州権益のことだと分からなければ、センターテストも危ない。
 ただ気を付けるべきことは、要求されているのは「何を棄てることを意味するのか」を「獲得した事情を含めて」書くのであって、「石橋湛山はどのような主義・主張であったか」ではない。与えられている字数が60字と少ないので、的を外したら足りなくなってしまう。

棄てるべきもの=遼東半島の旅順・大連の租借権および長春・旅順間の鉄道とそれに付属の利権。
獲得した事情=日露戦争後のポーツマス条約でロシアより譲渡された。


 この2つを60字でまとめる。

 Bについて。これも問われていることを正確に把握したい。主題は「唯一の道」を日本が進むことがなかった理由を、歴史的経緯をふまえて書く。

 「唯一の道」とは何か。これは史料から簡単につかめる。「満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、・・・朝鮮に、台湾に自由を許す」というのであるから、「中国における権益と朝鮮半島、台湾などの植民地を放棄すること」である。これらの権益や植民地を棄てなかった理由を歴史的経緯をふまえて述べなくてはならない。

 ここで考え方のヒントである。「棄てなかった理由」を書けということは、裏を返せば「棄てるチャンスはあったのに、なぜ棄てなかった(棄てられなかった)か。」ということである。これを年表式にまとめたい。スタートはこの史料がワシントン会議前であることから、ワシントン会議での日本の対応からということになるだろう。

1.ワシントン会議→これ以後ワシントン体制という国際協調体制が成立
(1)主催したアメリカの目的:経済の国際的循環の構造の必要性と、大戦中の日本の露骨な中国進出、連邦制国家形成へと向かうソヴィエトの動向、中国における民族運動の活発化など、極東の新情勢に対応するため。→米・英・日の建艦競争を終わらせて自国の財政負担を軽減するとともに、東アジアにおける日本の膨張をおさえる。(山川「詳説日本史」P305)
(2)具体的内容:太平洋諸島は現状維持(四カ国条約)。中国の領土と主権の尊重、中国における各国の経済上の門戸開放・機会均等(九カ国条約)→山東省の旧ドイツ権益の中国への返還
(3)ワシントン体制という国際秩序が成立した理由:アメリカがウィルソンの理想主義的外交から現実的な経済外交に方針を転換し、1920年代の日米経済関係もきわめて良好だった・・・。幣原外交は、正義と平和を基調とする「
世界の大勢」に歩調をあわせ、経済重視外交姿勢をその特徴としていた。中国に対しても不干渉主義をかかげたが、こと経済的な懸案になると非妥協的となり、反日運動もおこって日中関係全般の安定化には必ずしも成功しなかった。(山川「詳説日本史」P307)
(4)日本の大陸の位置付け:日露戦争後には、対満州の綿布輸出・大豆粕輸入、対朝鮮の綿布移出・米移入、台湾からの米・原料糖移入がふえ、日本経済に占める植民地の役割が大きくなった。(山川「詳説日本史」P281)
  
(金輸出禁止が続くなかで)巨大紡績会社は、大戦ののち中国に紡績工場をつぎつぎに建設した(在華紡)。(山川「詳説日本史」P317)
 

 これらをまとめると、ワシントン会議の際、「唯一の道」を選ばなかった理由は、
@中国権益や植民地の現状維持が、欧米の外交姿勢であったため、世界の大勢に同調しようとした。その背景にはこの時期、日米関係が良好であったことがある。このことは、資料中に「英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保つに得ぬに至るからである。」とあることからも分かる。
A協調外交も、中国などの権益を放棄するものではなく、あくまでも経済重視の外交であった。日本は植民地や中国権益を貴重な原材料供給地・市場、資本投下の場所と位置付けていた。

2.現状維持から権益拡大へ
(1)田中義一内閣の時期:日本の外交は中国政策をめぐって強硬姿勢に転じた。中国全土の統一をめざして北伐を進める国民革命軍は、広東を発してまたたくまに長江流域を制圧し、さらに北上を続けた。これに対して田中内閣は、1927年に中国関係の外交官・軍人を集めて東方会議をひらき、満州における日本権益を実力で守る方針を決定した。・・・山東出兵・・・済南事件・・・。関東軍は中央にはからず独断で、満州への帰還途上の張作霖を奉天郊外で列車ごと爆破して殺害し、これをきっかけに軍事行動をおこしたが、満州占領は失敗に終わった。(山川「詳説日本史」P318〜319)
(2)満州事変:中国で国権回収の民族運動が高まっているころ、日本国内では軍や右翼が幣原喜重郎の協調外交を軟弱外交と非難し「満蒙の危機」をさけんでいた。危機感を強めた関東軍は、中国の国権回収運動が満州におよぶのを武力によって阻止し、満州を長城以南の中国主権から切り離して日本の勢力下におこうと計画した。・・・満州事変・・・第2次若槻礼次郎内閣は不拡大方針を声明したが、世論・マスコミは戦争熱に浮かされたかのように軍の行動を支持した。・・・若槻内閣総辞職(山川「詳説日本史」P322)
(3)斎藤実内閣:日満議定書で満州国承認・・・国際連盟脱退→中国侵略が国策として定着・・・国際的孤立へ

 これらをまとめると、権益拡大へと進んだ理由は、
B中国国民革命軍が北伐を開始すると、満州権益を実力で守る方針に転換した。
C中国の国権回収運動の高まりに対して危機感を抱いた関東軍が満州事変を起こし、世論・マスコミもこれを支持した。
D日満議定書で満州国を承認し、中国侵略が国策として定着した

 以上@〜Dを120字でまとめたい。

<野澤の解答例>
A日露戦争後のポーツマス条約でロシアより譲渡された、旅順・大連の租借権および長春・旅順間の鉄道とそれに付属する利権。(59字)
B政府は権益や植民地を貴重な原材料供給地・市場として、経済重視で欧米と協調して保持を図った。しかし北伐や中国の国権回収運動の高まりに対する危機感から、関東軍が満州事変を起こし、世論もこれを支持すると、満州国を承認し、大陸進出は国策となった。(120字)

2007.7.8

参考:駿台予備校の模範解答
A日露戦争後のポーツマス条約で奪った関東州租借権や南満州鉄道などの権益を、他の植民地とともに放棄せよと主張した小日本主義。(60字)
B国内市場が狭隘なため海外市場を求めた日本帝国主義は、ワシントン体制下、欧米帝国主義と協調しつつ中国権益拡大を図る協調外交を余儀なくされた。しかし中国民族運動が高揚し、北伐が始まると、権益確保を目的に山東出兵など中国への軍事行動を開始した。(120字)

<発展>
 石橋湛山のこのような考え方は「小日本主義」という。湛山は今回資料に使われた「一切を棄つる覚悟」の1週間後の7月30日、大論文「大日本主義の幻想」を発表し、より詳細に「日本は満洲はもちろん朝鮮・台湾・樺太も棄てる覚悟をせよ、それこそが日本を活かす唯一無二の道である」と論じた。
 ただ誤解してはならないのは、湛山の主張は単に道徳的・人道的見地から植民地放棄を述べたものではない。そこには経済面と国防面からの客観的な論拠が記されている。
 例えば経済面で言うと、朝鮮・台湾・満州という彼が「棄てるべき」だと主張する3つの植民地すべてを合わせても昨年9億円余りの取引しかない。それに対して、アメリカは輸出入合計14億3800万円、インドに対して5億8700万円、イギリスに対してでも3億3000万円の取引があった。つまり、植民地よりアメリカなどのほうがよほど重要な存在である。にも関わらず、これら植民地を領有するために被る反日感情や植民地維持にかかる経費の損失を考えると、植民地経営は経済的にも割が合わない。
 なるほどと思う。国防面でもしかりであったが、当時の多くの日本人は、この訴えを空想として無視し、ますます大日本主義へと邁進した。満州事変に反対する政府に対して、朝日新聞をはじめとするマスコミも関東軍支持の大キャンペーンを展開し、若槻内閣を総辞職に追い込んだことは知っての通りである。果たして日本は大戦争へと突入し、民族滅亡の危機にさらされることになった。その結果もたらされたのは、凄惨な経済的破壊と戦勝国による他動的な植民地放棄であった。
 戦後日本は石橋湛山が主張したとおりの図式で、今日の経済発展の礎を築いたような気がするが、この件についてはいずれ
エピソードで記したいと思う。
 
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