【2】次の(1)〜(5)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。
(1) 1207年、親鸞は朝廷により越後に流され、1271年、日蓮は鎌倉幕府により佐渡に流された。
(2) 北条時頼は、建長寺を建立して渡来僧蘭溪道隆を住持とし、北条時宗は、無学祖元を南宋から招き、円覚寺を創建した。日本からも多くの禅僧が海を渡った。室町時代になると、外交使節はおもに五山の禅僧が起用された。
(3) 五山の禅僧は、漢詩文によって宗教活動を表現した。雪舟は、日本で宋・元に由来する絵画技法を学び、遣明船で明に渡って、現地でその技法を深めた。
(4) 蓮如は、だれでも極楽往生できると、かなの平易な文章で説いた。加賀では、教えを支持した門徒たちが守護を退け、「百姓の持ちたる国」のようになった。
(5) 日蓮の教えは都市の商工業者にひろまった。16世紀前半の京都では、信者たちが他の宗派を排して町政を運営した。
設問
A 政治権力との関わりをふまえて、禅宗が生み出した文化の特徴を、3行(90字)以内で述べなさい。
B 鎌倉時代に抑圧された宗派は、戦国時代までにどのように展開したか。3行(90字)以内で述べなさい。
<考え方>
資料(1)〜(5)まで、すべて基本事項である。簡単に書けそうな気がするだけに、出題の意図をしっかりと読み取らなくてはならない。
まずAについて。問われているのは禅宗が生み出した文化の特徴であって、成果、具体例ではない。つまり「禅宗は政治との関わりの中で、どのような特徴のある文化を生み出したか」を書くのであり、「雪舟が禅画の制約を乗り越えた日本的な水墨画様式を創造した」とか「絶海中津や義堂周信が出て漢詩文が隆盛した」などと書いたのでは、出題の意図を外したことになる。
関係する資料は(2)、(3)である。
(2)から単純に読み取れることは、鎌倉時代には渡来僧が重要寺院の開山となったこと。室町時代には五山僧が、幕府の外交顧問となったことである。しかしこれは日本史の基本事項であり、資料を提示されなくても知っている。つまりこれは、「渡来僧が重要寺院の開山となった」ことや「五山僧が、幕府の外交顧問となった」といった個別のことを読み取らせたいのではなく、禅宗(特に臨済宗)が武家政権から積極的な支持や保護を受けたということ。そして禅僧が中国と深い関係があったということを導かせたいのだと考える。彼らの文化活動が中国との交流の上に成り立っていたことは、資料(3)からもわかる。ちなみに五山僧が外交顧問となった背景には、彼らが漢詩文等を学ぶ上から中国語に通じていたこともあげられる。
ではなぜ、武家政権(政治権力)は禅宗・禅僧とその文化を保護したのか。
『室町時代編7 室町文化1(南北朝・北山文化)』で「室町文化全体を通しての特徴は、禅宗の影響を受けた武家文化と伝統的な公家文化の融合」と記したことを参考にしてもらいたい。
さらにヒントにできるのが、暗殺された鎌倉幕府第3代将軍源実朝のイメージと、明に「日本国王源道義」と呼ばれた室町幕府第3代将軍足利義満のイメージではないか。
実朝は和歌などの公家文化を好み、「山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心わがあらめやも」と読み、質実剛健な武家には不似合いな将軍というイメージであろう。
一方の五山の制をつくった義満は、天皇の義父となることで公家勢力を押さえ込み、征夷大将軍として武家勢力を支配し、五山の制によって寺社勢力をも統制した、まさに3つの権門すべてに君臨した日本国王であった。
つまり鎌倉初期は「文化=公家のもの」から、室町時代には「禅宗の影響を受けた武家文化」が形成されていたのである。「文化は公家のもの」という構図に対して、武家政権が新たな(独自の)文化を形成しようとし、実際、室町時代には形成されていたことを導きたい。
ここから、
ア.禅宗は、公家勢力に対抗して新たな(独自の)文化を形成しようとする武家政権から支持と保護を受けた。
イ.禅僧は中国との深い関係や盛んな交流があった。
ウ.その結果、五山など禅宗寺院を中心に漢詩文や水墨画などの中国風の文化が創り出された。
を90字以内でまとめればよい。
Bについて。鎌倉時代に抑圧された宗派が、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗であることが分からなければセンター試験もできないが、仮に分からなくても(1)、(4)、(5)で鎌倉時代に浄土真宗と日蓮宗が弾圧され、室町時代には発展したことが記されている。浄土宗がないじゃないかと思うかも知れないが、逆にあったら室町時代以降の発展を知らないので困ってしまうだろう。(窓 『鎌倉新仏教』 参照)
設問で良心的だなと思ったのは、「戦国時代までに」という時期設定である。蓮如や法華一揆は「山川の教科書」では室町文化の最後の項目として取り上げられているが、蓮如の命で寺内町が信長と戦ったことを考えると、「これは戦国時代のことかな?」と不安になる受験生がいるのではないか。この「戦国時代までに」という聞き方は、そうした受験生にも配慮しているように思えてうれしくなる。何だか東大のシンパになりそうだ。
anyway、ここから、浄土真宗、日蓮宗が戦国時代までにどのように発展したかを述べたい。
当たり前のことだが、気を付けなければならないのは、問われているのは「鎌倉時代に抑圧された宗派は、戦国時代までにどのように展開したか。」であって、どのように弾圧されたかではない。
1.浄土真宗について
ア.一向一揆の起こった場所から考えても、近畿(石山戦争)・東海(伊勢長島の一向一揆)・北陸(加賀の一向一揆)に広まったことが分かる。
(山川の「詳説日本史」には、「本願寺の勢力は、北陸・東海・近畿地方に広まり、各地域ごとに強く結束し、強大なものとなった。そのため、農村の支配を強めつつあった大名権力と門徒集団が衝突し、各地で一向一揆がおこった。その代表的なものが加賀の一向一揆である。」と書かれている。)
イ.徳川家康の家臣にも門徒がいたこと、加賀の一向一揆の際、「百姓の持ちたる国のよう」と言われたことなどから、地方武士や百姓・商工業者に広まったことが分かる。
(「詳説日本史」には、「農民のほか、各地を移動して生活を営む商人や交通・手工業者などにも受け入れられて広まっていった。」とある。)
ウ.寺内町という排他的な都市を形成し、さらに一向一揆を結んで、守護を排して自治支配を実現した。 加賀の一向一揆では1世紀の自治を実現した。
2.日蓮宗について
ア.法華一揆や天文法華の乱からも、京都の有力な商工業者(町衆)に広まっていたことが分かる。
※ここは教科書の記述をそのまま用いたい。「詳説日本史」には次のように書かれている。
「はじめ東国を基盤にして発展した日蓮宗(法華宗)は、やがて京都へ進出した。(略)京都で財力をたくわえた商工業者には日蓮宗の信者が多く、彼らは1532(天文元)年、法華一揆を結んで、一向一揆と対決し、町政を自治的に運営した。」
以上を90字以内でまとめたい。
<野澤の解答例>
A.禅宗は、公家勢力に対抗して独自の文化を創り出そうとする武家政権の保護を受け、禅僧は中国と盛んに交流した。そのため禅宗寺院を中心に、漢詩文や水墨画などの中国風の文化が形成された。(90字)
B.浄土真宗は北陸・近畿などの武士や百姓らに広まり、加賀では守護に対抗して1世紀の自治を獲得した。日蓮宗は京都の富裕な商工業者に浸透し、法華一揆を結んで一向一揆と対決し町政を運営した。(90字)
参考:駿台予備校の模範解答
A.臨済宗は、鎌倉期には渡来僧が重要寺院の開山となり、室町期には五山僧が幕府の外交顧問などに登用された。禅宗文化は中国文化の影響の下、漢詩文・水墨画や侘び茶・書院造などを発展させた。(90字)
B.浄土真宗本願寺派の蓮如は講と御文により農村に教線を拡大し、加賀の一向一揆は守護を打倒して1世紀の自治を実現した。日蓮宗の日親は京の町衆に布教し、法華一揆は一向一揆などと対立した。(89字)
2007.5.21