2007年度 『東京大学 その1』  

【1】8世紀の銭貨について述べた次の(1)〜(5)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 711年には、穀6升をもって銭1文に当てることとし、また712年には、諸国からの調庸を銭で納める場合には、布1常を銭5文に換算することとした。
(2) 711年に、位階や職務に応じて、絹織物・糸のほか銭を役人に支給する法を定めた。また、蓄えた銭の多少にしたがって位階を授けることを定めた。
(3) 712年に、諸国の役夫と運脚の者に対して、郷里に帰るときの食糧の欠乏を救うため、銭を携行することを命じた。
(4) 東大寺を造る役所の帳簿には、銭を用いて京内の市で物品を購入したことや、雇っていた人びとに銭を支払ったことが記されている。また、山背国の計帳には、調として銭を納めていたことが記されている。
(5) 798年に、「外国(畿内以外の諸国)の役人や人民が銭を多く蓄えてしまうので、京・畿内ではかえって人びとが用いる銭が不足している。これは銭を用いる便利さにそむき、よろしくない。もっている銭はことごとく官に納めさせ、稲をその代価として支給せよ。銭を隠す者を罰し、その銭は没収せよ」という法令を、畿内以外の諸国に向けて出した。

設問
日本の古代国家は、銭貨を発行し、その使用を促進するためにさまざまな政策を実行してきた。銭貨についての政策の変遷をふまえて、8世紀末に(5)の法令が出されるようになった理由を、6行(180字)以内で説明しなさい。

<考え方>
 (1)から(5)を読んで、すぐにピンときたのは(2)が蓄銭叙位令だということぐらいではないか。この蓄銭叙位令をめぐって、山川の「詳説日本史」には「銭貨は都の造営にやとわれた人々への支給銭など宮都造営費用の支払いに利用され、政府はさらにその流通をめざした蓄銭叙位令を発したものの、京・畿内を中心とした地域の外では、稲や布などの物品による交易が広く行われていた。」と書かれている。
 あと、ぼくのHPの通史編を読んでいる人は、(4)と『飛鳥時代〜奈良時代編4 奈良時代の政治/平城京と国土の開発』 中の「平城京造営は労働した人々に報酬を支払って行われた。これを雇役といい、携わった人を雇丁という。実は和同開珎は平城京造営の1日分の報酬であった。和同開珎が雇役の報酬として意味をなすためにも、銭に価値がなければならなかったわけである。蓄銭叙位令にはそうした意味もあった。(実は回収した銭をもう一度賃金として支払っていた。セコイ・・・。) 」という文章とがつながったと思う。
 ただ蓄銭叙位令が800年に廃止されたことを知っている人でも、その2年前に(5)のような蓄銭の禁止令が出ていたことまでは知らなかったであろう。
 古代の銭貨(皇朝十二銭/本朝十二銭)については、同じページに「和同開珎からの流れで出される皇朝十二銭は最初の和同開珎と最後の乾元大宝(村上天皇)がわかれば十分である。」と記したとおりであり、受験生はこの知識をもとに資料をいかに読み取って解答を作成するかが勝負となる。

 資料の読み取り
(1)、(2)、(3)、(5)は年代が明記されている。(4)は東大寺造営だから740年代以降と分かる。
(1)8世紀初:銭貨と物品の交換比率を定めた。また現物納であったはずの「諸国」からの調庸を銭で納めることを許可した。(というより推奨しているとも取れる。)
(2)8世紀初:官人への給与を銭貨を支給する。蓄銭叙位令が出された。
(3)8世紀初:「諸国」の役夫・運脚の者に銭貨を携行することを命令した。
(4) 8世紀中:京内では銭貨で物品が購入できた。雇役の報酬として銭貨が使用されていた。畿内では実際に調が銭納されていた。→京・畿内では流通していた。
(5)8世紀末:畿内以外の諸国に銭貨を官へ提出させる命令。銭を隠す者は罰し、その銭を没収するという厳しいものであった。ただし代価として米を支給した。理由は、京・畿内で使用する銭が不足したためである。
赤字は法令等の対象となった地域である。)

 ここから、解答の大きな流れを組み立てることができる。つまり、
1.8世紀初=諸国(全国的)に銭貨を普及させる政策であった。そのため物品との交換比率を定め、調庸の銭納を認めた。また、官人の給与にも銭を用いる一方で、蓄銭叙位令により政府への回収を図った。
2.8世紀中=初期の政策の結果、京・畿内では銭貨の流通が見られた。
3.8世紀末=京・畿内で使用する銭貨が不足したため、畿内以外の諸国に対しては銭貨を普及させる政策を改め、中央へ強制的に還流させる政策へ転じた。

 問われているのは「政策の変遷をふまえて、8世紀末に(5)の法令が出されるようになった理由」であるから、「8世紀初=全国的に銭貨を普及させる政策→8世紀末=畿内以外の諸国に対しては銭貨を強制的に中央へ還流させる政策」及び「京・畿内で使用する銭貨が不足」という内容は不可欠である。

 文章でまとめると

 8世紀初め、政府は全国に銭貨を普及させる政策をとり、物品との交換比率を定め、官人への給与や調庸の納付にも銭を用いる一方で、蓄銭叙位令により政府への回収を図った。その結果、京・畿内では銭貨が流通するようになったが、8世紀末には銭貨が不足するようになったため、畿内以外の諸国に対しては銭貨を普及させる方針を改めて、中央へ強制的に還流させる政策へ転じた。(173字)

 これでもよさそうだが、できればもう一歩踏み込みたい。それは、「なぜ中央で銭貨が不足する事態となったか」である。資料(5)では「畿内以外の諸国の役人や人民が銭を多く蓄えてしまうので」とあるが、蓄銭叙位令はもともと貨幣の中央への回収も目的としていたので、これがすべての理由とは思えない。

 ぼくのHPでは藤原仲麻呂(恵美押勝)の時代に「開基勝宝という最初の金貨」の鋳造があったことを記しているが、実はこの年(760年)、金銭である開基勝宝のほかに、銀銭(太平元宝)と銅銭(萬年通宝)も作られている。しかも、金銭1枚=銀銭10枚=新銭(萬年通宝)100枚=旧銭(和同開珎)1000枚 という交換レートも制定された。新銭は旧銭10枚分という基準は混乱と批判を招き、結果としては撤回することになるのだが、同じ銅の量で従来の10枚分の価値があるものを発行するというのは、貨幣の発行によって政府の収益を出そうというものである。(銭貨発行収入の確保)
 実際、「萬年通宝」は和同開珎より少し大きいだけであり、796年の「隆平永宝」以後は銅の含有量も減っている。中央での銭の不足、さらに言えば
銭の材料となる銅の不足がわかる。しかし、このことは受験生が知っておくべき内容ではない。

 ここで注目したいのが資料(5)である。
 798年ごろ畿内で大量の銭が必要となった原因は何か。708年に鋳造された和同開珎は、710年から始まる平城京造営のために支払われた。
 798年は、794年から始まった
平安京造営のまっただ中である(徳政争論により、蝦夷征討と平安京造営の2大事業が打ち切りをなるのは805年)。
 平安京造営に雇われた人々への支給銭として必要だったと考えられる。


 以上のことから次のような解答例を作成した。

<野澤の解答例>
政府は平城京造営の財源を補うため、銭貨と物品の交換比率を定め、役人や雇用した人々への給与として用い、全国に流通させようとした。東大寺造営でも銭貨を利用する一方で、税の銭納や蓄銭叙位令によって回収しようとした。しかし、畿内以外では役人や人民が多く蓄銭したことで流通が阻害され、平安京造営等に用いる銭貨が不足したため、諸国の銭貨を中央に全て還流させる政策に改めた。 (180字)


参考:駿台予備校の模範解答
 8世紀初頭、律令政府は貨幣の鋳造を進め、交換の媒体となっていた穀・布と銭の交換率を決定した。また官人給与を銭で支給する法や蓄銭叙位令を定める一方、調庸の銭納や運脚に銭を支給するなど地方への銭の普及も図った。その結果、京・畿内では銭の一定の流通をみたが、位階獲得を目的とした地方豪族と有力農民が蓄銭を行い、8世紀末には京・畿内では貨幣が不足し、流通が停滞した。(180字)

2007.4.22
2018.6.21修正

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