【2】院政期における武士の進出について述べた次の(1)〜(5)の文章を読んで,下記の設問A・Bに答えなさい。
(1) 院政期には、荘園と公領が確定される動きが進み、大寺社は多くの荘園の所有を認められることになった。
(2) 白河上皇は、「私の思い通りにならないものは,賀茂川の水と双六のさいころと比叡山の僧兵だけだ」と言ったと伝えられる。
(3) 慈円は、『愚管抄』のなかで、「1156(保元元)年に鳥羽上皇が亡くなった後、日本国における乱逆ということがおこり、武者の世となった」と述べた。
(4) 平氏は,安芸の厳島神社を信仰し、何度も参詣した。また、一門の繁栄を祈願して、『平家納経』と呼ばれる豪華な装飾経を奉納した。
(5) 平清盛は、摂津の大輪田泊を修築し、外国船も入港できる港として整備した。
設問
A 中央政界で武士の力が必要とされた理由を、2行以内(60字以内)で述べなさい。
B 平氏が権力を掌握する過程と、その経済的基盤について、4行以内(120字以内)で述べなさい。
<考え方>
前回同様、小論文と同じように、書くべきポイントを整理したい。まずはAから。
@院政期の武士の進出について問われている。
A中央政界で武士の力が必要とされた理由を書く。
B60字以内で、(1)〜(5)の資料をもとにして書く。
院政期の武士であるから、いわゆる武士の発生と成長に触れる必要はない。(発展 『武士の発生』 参照)
正直言ってこの問題を見た時、「猫問」だと思った。なぜならA、Bともに資料文がなくても授業の基本知識のみで書ける内容だからである。
ほとんどの受験生は(2)、(3)の内容は、資料がなくても知っていたと思う。「南都北嶺に代表される僧兵の乱暴と、保元・平治の乱という天皇家・摂関家の内紛を武士の力で解決した」ことは、基本中の基本である。60字以内ならこれを書くだけでO.K.のように見える。
しかし、ここで小論文演習の力が生きてくる。Bの条件である。「(1)〜(5)の資料を読んで」とある。つまりは使いなさいということだ。(2)、(3)はいい。(4)、(5)はBの平氏の権力掌握過程で使える。では(1)はどうなるのか。Bでは触れられそうにない。となるとAで使うしかない。
院政期は大寺社にとって荘園が認められるか否かが確定した時代であった。「後三条天皇の延久の荘園整理令によって、大寺社であっても荘園を没収された」のは必須事項。このことが院政期に南都北嶺が要求(荘園・公領制の中、荘園の所有権・支配権を認めてくれ)を掲げて盛んに強訴した理由であった。そのことに触れられるかどうかが、ポイントである。
次にBについて考えたい。ポイントは、
@院政期の武士の進出について問われている。
A平氏が権力を掌握する過程と、その経済的基盤について書く。
B120字以内で、(1)〜(5)の資料をもとにして書く。
平氏政権の特徴については、『平安時代編6 院政と平氏政権/平安末期の文化』でそのまま書ける。「平氏政権の特徴」を問われた段階で、その武士的な側面と貴族的な側面の両方に触れることが要だという判断はできてほしい。その上で、資料(4)から平氏の拠点が西国であること。資料(5)から瀬戸内海航路を掌握して進められた日宋貿易も、経済基盤の一つであったことを落とさず書きたい。
→平氏は平正盛の時、院の近臣として中央政界に進出した。忠盛の時、瀬戸内海の海賊を平定、西日本に勢力を伸ばすとともに、鳥羽上皇の院庁別当となった。清盛は西国武士を家人として組織し、軍事的基盤とする一方、保元・平治の乱を通して地位と権力を向上させていった。清盛自身が太政大臣となった他、一門も高位高官に登った。さらに娘徳子を高倉天皇に入内させて、安徳天皇の外戚となった。その経済基盤は多数の荘園と知行国、さらに瀬戸内海航路を掌握して進められた日宋貿易の利益であった。
この内容を120字以内でコンパクトにまとめたい。
<野澤の解答例>
A 荘園・公領の境界をめぐって、寺社の僧兵の強訴が頻発した。天皇家・摂関家の内紛も深刻化し、解決に武士の力を必要としたため。(60字)
B 平氏は院の近臣として台頭し、保元・平治の乱で権力を伸ばした。清盛は西国武士を家人として組織する一方、太政大臣に就任、一門も高位高官に登り、天皇の外戚となった。多数の荘園・知行国と、瀬戸内海航路を掌握して進められた日宋貿易が経済基盤であった。(120字)
なお、今回も駿台予備校の模範解答を紹介しておく。
A 神仏の威を背景に南都北嶺の僧兵が強訴を繰り返し、天皇家や摂関家の内紛も深刻化したので、その解決に武士の力が要請された。
B 伊勢平氏は北面の武士として台頭し、保元・平治の乱で実権を掌握した清盛は、西国武士を家人化する一方、太政大臣となり、律令官職独占を進め、外孫の安徳天皇も即位させた。また経済基盤は多数の荘園・知行国と瀬戸内海航路掌握を通した日宋貿易であった。
Bについては、野澤の内容とほとんど同じである。「えっ?」と思ったのはAである。ぼくがポイントだと考えた資料(1)の内容が、まったく触れられていない。資料(1)はBの平氏の「経済基盤は多数の荘園」であったという部分でよいという判断であろうか。
2006.8.21