2012年度 『京都大学 その2』

平安末期から鎌倉末期の日中関係とその影響

【W】(2)平安時代末期以降、鎌倉時代末に至る日本と中国との関係、日本が中国から受けた影響について述べよ。 (200字以内)

<考え方>
問われていることは、
(1) 平安時代末期から の
(2) 鎌倉時代末期まで 
(3) 日本と中国の関係 
(4) 日本が中国から受けた影響
 を述べる
ことである。

 平安末期の日中関係というと、すぐに思いつくのが日宋貿易、鎌倉末期というと元寇である。
 影響というと、普通は産業・経済面と文化面を思い浮かべるので、まずは貿易を考えると、日宋貿易では宋銭や太平御覧といった書物を輸入した。そして盲点になるのが、鎌倉末期に幕府は元とも貿易をしている(建長寺船)ことである。
 文化面では、栄西や道元が入宋して禅宗を学んだり、宋学ともいわれる朱子学が伝わったりした。
 ただし、遣唐使が廃止されてから、足利義満が日明貿易を開始するまでの間、日中間に正式な国交はなかった。

 これらをつなぎ合わせると、200字だったらもうできそうだが、ここは原則にしたがって教科書(山川『詳説 日本史』)から要点を抜き出してみたい。

ア 日本は宋と正式な国交をひらこうとはしなかったが、九州の博多に来航した宋の商人を通じて、書籍や陶磁器などの工芸品・薬品などが輸入され、また朝廷の許可を得て宋にわたる僧もおり、大陸との交流は活発であった。(P.63)
イ 平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れた。(略)清盛は、摂津の大輪田泊を修築して、瀬戸内海航路の安全をはかり、宋商人の畿内への招来にもつとめて貿易を推進した。清盛の積極的な対外政策の結果、宋船のもたらした多くの珍宝や宋銭・書籍は、以後のわが国の文化や経済に大きな影響をあたえ、貿易の利潤は平氏政権の重要な経済的基盤ともなった。(P.85〜86)
ウ 鎌倉幕府のもとでも、日宋間の正式な国交はひらかれなかった。しかし、平氏政権の積極的な海外通交後、引き続いて私的貿易や僧侶・商人の往来など、両国の通交はさかんにおこなわれ、日本列島は宋を中心とする東アジア通商圏のなかに組み入れられていった。(これ以下、元寇について)(P.99)
エ 禅宗は、12世紀末ごろ宋にわたった天台の僧栄西によって日本に伝えられた。(略)栄西の死後、南宋から蘭溪道隆・無学祖元らの多くの禅僧が来日し、(略)栄西の弟子に学んだ道元は、さらに南宋にわたって禅を学び、坐禅そのものを重視する教えを説いて北陸地方に布教をすすめた。(P.106〜107)
オ この時代の末期には、宋の朱熹がうち立てた儒学の一つである宋学(朱子学)が伝えられた。その大義名分論のあたえた影響は大きく、後醍醐天皇を中心とする討幕運動の理論的なよりどころともなった。

 これら200字以内に要約すればよい。

<野澤の解答例>
宋・元との間に正式な国交は開かれなかったが、商人を通じて交流は活発であった。平氏政権は日宋貿易に力を入れ、輸入された宋銭・書籍はわが国の貨幣経済や文化に大きな影響を与えた。鎌倉幕府のもとでも私貿易などの通交は盛んに行われ、元寇で両国が交戦した後も建長寺船が元へ派遣された。僧侶の往来によって禅宗や朱子学が伝えられ、朱子学の大義名分論は、後醍醐天皇を中心とする討幕運動の理論的なよりどころともなった。(199字)


2012.3.14


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