2007年度 『京都大学 その1』


 今年度も、大問4つで1〜3が用語や短文。問4が論述である。

 問1〜3の問題と解答は多くの予備校が紹介しているので参照してほしい。この際、落とし穴となるのは先に解答を見ると、おそらく初見の語句はないと思う。しかし解答できるか。本当に理解できていないと導き出せないと思う。
 理科系の学生もそうだが、特に文科系の学生は「国語力が勝負を決める」と改めて実感させられる。

 さて、今回も問4の論述問題のみ解説する。それぞれ200字以内である。

【W】(1)考古資料(遺構※や遺物)を具体的な証拠として示して、縄文時代と弥生時代の主要な生業の違いを述べよ。(※遺構とは、大地に刻み込まれた人間の営みの痕跡を指す。たとえば、住居跡、井戸跡、墓穴など)。

<考え方>
 最初に考古学と(文献)史学の違いは何か。「古〜い時代」を扱うのが考古学、そうじゃないのが歴史学ではない。文字に残されたもので考察するのが(文献)史学、文字以外の遺物・遺構で考察するのが考古学である。だから「草戸千軒」の調査は、時代は中世でも立派な考古学の成果である。

 縄文時代の生業=採集経済、弥生時代=生産経済というのは、誰でも分かる。ここで問われているのは、なぜそう考えられているのか。つまり、考古学の基本に立ち返って、「○○から□□と判断できる」と記しながら、縄文時代と弥生時代の違いを述べることが求められている。

 問題用紙の端にでも具体的に書いてみよう。

 縄文時代は、狩猟・漁労・採集だが、その根拠は、
1.狩猟←弓矢
2.漁労←骨角器の銛や釣針、石錘から網の使用、貝塚
3.採集←木の実をすりつぶす石皿、すり石
 ほかに
4.原始的農耕の開始←三内丸山遺跡からクリなどの栽培
 もあるが、あくまでも主要な生業は採集である。

 弥生時代は、生産経済であり、食料を保存するようになった。
1.登呂遺跡のような水田遺構が各地に残っている
2.銅鐸に見られる木臼と竪杵を用いた脱穀や高床倉庫の様子
3.石包丁など朝鮮系の磨製石器
4.鋤、鍬などの木製農具
 さらに「農耕と併行して狩猟や漁労もさかんで、ブタの飼育がおこなわれたことも知られる。」(山川「詳説日本史」P14)と教科書にある。ブタの飼育の根拠は前後の記述にはないが、これは吉野ヶ里遺跡をはじめとする複数の遺跡からブタの骨が見つかっていることによる。

 ここで、ぼく自身すごく悩んだことがある。それは、縄文時代に弓矢が発明され漁労などが盛んになった理由、つまり「完新世になると、地球の気候も温暖になり、海面が上昇したこと。実のなる落葉広葉樹林や照葉樹林が広がったこと。大型動物が絶滅してニホンシカやイノシシのような動きのはやい中小動物が増えたこと」などを記すべきか否かである。
 問題文を文字通り解釈すると、「考古資料を具体的証拠として示し、生業の違いを述べよ」だから不必要だと判断される。そこで、解答例としては文脈を整えるために部分的に使用するに止めた。

<野澤の解答例> 
縄文時代は、石皿・すり石を用いて木の実をすりつぶしたり、骨角器の釣針や石錘を用いた網漁などの漁労や、弓矢を使用して中小動物を狩るなどの採集経済が主であった。一方弥生時代は、登呂遺跡に代表される水田跡や大量の木製農具、石包丁などから水稲耕作が行われ、銅鐸の模様からも木臼や竪杵で脱穀して高床倉庫などに貯蔵していたことが分かる。ブタの飼育の痕跡も各地の遺跡に残っており、生産経済が主な生業であった。(199字)

2007.8.6

参考:駿台予備校の模範解答
縄文時代は、完新世に入り温暖化がすすむなか、海進や落葉広葉樹などの広がりに対応し、石皿・すり石を用いて木の実を製粉し、弓矢を用いて中小動物を捕獲し、網を用いて漁労を行うなど、採集経済が主な生業とされた。一方、弥生時代は、各地で出土する水田跡や大陸系の石包丁などにみられるように、本格的な水稲耕作が定着し、生産経済が主な生業とされた。しかし、銅鐸の絵にみられるように狩猟などの採集経済にも依存していた。(200字)

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