2013年度 『一橋大学 その3』 

岸信介と日本の動向
                                           

Ⅲ 次の文章を読んで下記の問いに答えなさい。(問1から問4まですべてで400字以内)

 岸信介は、1896年に山口県で生まれ、東京帝国大学在学中、美濃部達吉と対立する憲法学説を唱えていた上杉慎吉に私淑した。卒業後、農商務省の官僚となり、その後身の一つの商工省で(1)重要産業統制法の作成にあたった。1936年には満州国にわたり、政府高官となって、産業開発五ヵ年計画の立案や日産コンツェルンの満州移駐に関わった。満州国で関東軍参謀長の東条英機と親しくなった岸は、日本に戻って商工次官を務めた後、東条内閣で商工大臣に就任し、(2)太平洋戦争の開戦の際には宣戦の詔書に副署した。
 岸は、敗戦後、(3)A級戦犯の容疑で逮捕されることになったが、1948年、起訴を免れて出獄した。その際に岸が向かった先は、吉田内閣の官房長官を務めていた実弟の佐藤栄作の公邸であった。サンフランシスコ平和条約の発効とともに公職追放を解除され、政治活動を再開した岸は、保守合同に力を発揮し、1955年に結成された自由民主党の初代幹事長となった。1957年には首相に就任し、日米安全保障条約の改定を進めたが、(4)それに対する反対運動(安保闘争)が高まり、新条約の自然成立を受けて退陣した。

問1 下線部(1)に関して、重要産業統制法が制定された経済的背景について説明しなさい。

問2 下線部(2)に関して、日本が太平洋戦争の開戦を最終的に決定する契機となったアメリカの動きについて説明しなさい。

問3 下線部(3)に関して、GHQが天皇を戦犯容疑者に指定しなかった理由について説明しなさい。

問4 下線部(4)に関して、安保闘争が1960年5月から6月にかけて高揚した理由について説明しなさい。

<考え方>
問1 要求されているのは、
(1) 重要産業統制法が制定された経済的背景

である。教科書(山川『詳説 日本史』)のP.320から要点となる部分を抜き出す。

ア 財政を緊縮して物価の引き下げをはかり、産業の合理化を促進して国際競争力の強化をめざした。
イ 1930年1月には、旧平価による金輸出解禁(金解禁)を断行して、外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理とをはかった。
ウ 旧平価解禁をあえて実施したのは、生産性の低い不良企業を整理・淘汰して日本経済の体質改善をはかる必要があるとの判断があった。
エ 世界恐慌により、日本経済は金解禁による不況とあわせて二重の打撃を受けることとなり、昭和恐慌という深刻な恐慌状態におちいった。
オ 輸出が大きく減少し、正貨は大量に海外に流出して、企業の操業短縮・倒産があいつぎ、産業合理化によって賃金引き下げ・人員整理がおこなわれて、失業者が増大した。
カ 重要産業統制法を制定し、指定産業での不況カルテルの結成を容認した。

以上をまとめると、「
国際競争力の強化を目指して、旧平価での金解禁によって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理をはかったが、日本経済は世界恐慌の影響も受けて深刻な昭和恐慌におちいった。輸出が大きく減少し、正貨が大量に流出して、企業の倒産が相次ぎ失業者が増大する中、一層の産業合理化が必要であったため。」となる。

  
問2 要求されているのは、
(1) 日本が太平洋戦争の開戦を最終的に決定する契機となったアメリカの動き

である。これは受験生全員が「ハル=ノート」だと判断できたと思う。このハル=ノートに関する内容を、教科書から抜き出す。

ア 東条英機内閣は、日米交渉を継続した。
イ 1941年11月26日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものであった。
ウ 交渉成立は絶望的となり、御前会議は対米交渉を不成功を判断し、英米に対する開戦を最終的に決定した。

以上をまとめると、「
日米交渉の中で出されたハル=ノートは、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものであったため、交渉成立は絶望的となり、御前会議は開戦を最終的に決定した。」となる。


問3 要求されているのは、
(1) GHQが天皇を戦犯容疑者に指定しなかった理由

である。これは教科書のP.348の21行目にそのままある。「戦犯容疑者の逮捕が進むとともに、内外で天皇の戦争責任問題もとり沙汰された。しかしGHQは、
天皇制廃止がもたらす収拾しがたい混乱をさけ、むしろ天皇制を占領支配に利用しようとして、天皇を戦争容疑者に指定しなかった。」


問4 要求されているのは
(1) 安保闘争が1960年5月から6月にかけて高揚した理由
 
である。これは教科書のP.367に次のようにある。「
政府・与党は、1960年5月、警官隊を導入した衆議院で条約批准の採決を強行すると、反対運動は「民主主義の擁護」をさけんで一気に高揚した。安保改定阻止国民会議を指導部とする社共両党・総評などの革新勢力や全学連の学生、一般の市民からなる巨大なデモが連日国会をとりまいた(60年安保闘争)。」


 以上を、全部で400字でまとめればよい。要点のみをつなぐと、360字程度になるので、ハル=ノートの具体的内容を加えた。


<野澤の解答例>
1国際競争力の強化を目指して、旧平価での金解禁による外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理をはかったが、日本経済は世界恐慌の影響も受けて深刻な昭和恐慌におちいった。輸出が大きく減少し、正貨が大量に流出して、企業の倒産が相次ぎ失業者が増大する中、一層の産業合理化が必要であったため。2日米交渉の中で出されたハル=ノートは、中国・仏印からの全面的撤退や汪兆銘政権・満州国の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものだった。そのため交渉成立は絶望的となり、御前会議は開戦を最終的に決定した。3天皇制廃止がもたらす収拾しがたい混乱をさけ、むしろ天皇制を占領支配に利用しようと判断したため。4条約の批准をめぐり、政府が警官隊を導入して衆議院で採決を強行すると、反対運動は一気に高揚し、革新勢力や全学連の学生、一般の市民からなる巨大なデモが連日国会をとりまいた。400字) 


 
2013.3.20


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