2012年度 『一橋大学 その1』 

古代から近世の都市のあり方
                                           

【Ⅰ】次の文章を読んで下記の問いに答えなさい。(問1から問5まですべてで400字以内)

 都市のあり方は、その時代の政治・経済の仕組みと密接に関わっており、日本史においても、さまざまな都市が盛衰を繰り返している。(1)律令国家の形成とともに中国に倣って都城が建設されたが、最後に建設された(2)平安京は中世になっても日本の中心都市としての地位を守り続け、人口は数十万人を数えたとされる。一方、地方でも(3)11世紀後半頃から博多が、さらに14世紀後半頃から堺が発展をとげ、最盛期には人口は数万人に達したとされる。近世になると、京都とともに江戸・大坂が三都と呼ばれ、中でも(4)江戸は人口百万という当時の世界最大の都市となった。⑸地方では大名城下町が発展し、前田氏の城下町金沢は人口が十万人に達したとされている。

問1 下線部(1)に関し、都城にはどのような人々が居住し、その生活を経済的に支えていたのは何であったかを説明しなさい。
問2 下線部(2)に関し、中世の京都において、住民のあり方や構成がどのように変化していったかを説明しなさい。
問3 下線部(3)に関し、博多と堺が発展した理由と、それぞれが近世にかけてどのように変化したかについて述べなさい。
問4 下線部(4)に関し、江戸がこのような巨大都市となった理由を述べなさい。
問5 下線部(5)に関し、近世に大名城下町が成立・発展した理由を述べなさい。


<考え方>
問1 要求されているのは、
(1) 律令国家の形成とともに建設された中国に倣った都城について
(2) どのような人々が居住していたか書く

(3) その人々の生活を経済的に支えていたものは何であったかを書く

ことである。さらに続く文章に「最後に建設された平安京」とあるので、出題者のイメージは藤原京や平城京であると考えてよい。
教科書の平城京に関する記載をみると、次のようにある。
「京には貴族・官人や庶民の住宅が建ち、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺、のちには東大寺・西大寺などの大寺院が立派な伽藍建築を誇った。(略)市では、地方から運ばれた産物、官吏たちが現物給与として支給された布や糸などが交換された。」(山川『詳説日本史』P.39)

 さらに脚注に「古代の宮廷生活やそれを支えた
財政構造などが明らかになっている。(略)長屋王らの皇族・貴族から下級官人にいたる各階層の生活の様相があきらかになりつつあり(以下略)」とある。
 その財政構造はどうなっているんだ!それが書いてあったらドンぴしゃなのに!!というところである。
 
 ここから(2)の住んでいた人々は、貴族や官人、庶民、僧侶だと書ける。では(3)は何と書くのか。貴族・官人については「
官吏たちが現物給与として支給された布や糸」という文章からも、布=庸布、糸=調と判断できる。では庶民や僧侶はとなると、教科書には記述がない。
 もっとも正式な僧侶は官寺に属していたので、国家の保護を受けていたと考えることができる。では庶民はとなると、都城の中なので、純粋な農民というよりは造営関係の雑役夫(ぞうえきふ)などと考えられる。彼らの経済基盤は国家からの支給である。
 
 しかし、庶民、僧侶の生活も良民の税が支えていたという文章は何か違和感がある。教科書通り抜き出せば、住んでいたのは「貴族や官人、庶民、僧侶」だが、ここは「
住んでいたのは貴族・官人。生活を支えてのは民衆(良民)が負担する調と庸。」でいいのではないか?しかし、生徒に「庶民、僧侶は書く必要がない。」ということを、どう納得させるのか。
 
 この点については、いつもお世話になっている駿台予備校の
塚原哲也先生に「目から鱗」のサジェスチョンをいただいた。

「書く必要はない。
一橋の小問はよく問1と問2、さらに問3、問4と対比させるようになっている。その視点で考えれば、問1は奈良時代に都平城京に住んでいたのは、貴族と官人。問2は、中世に都京都に住んでいたのは、支配者となった武士(と経済の発達にともなう商工業者)。問4は江戸時代に江戸に住んでいたのは将軍、大名などの武家(とその需要に応えるための商工業者)となる。僧侶、庶民は(この流れに関係なく)書く必要はない。」

 なんと明確で説得力のある説明だろう。今更ながらさすがだと感服して、早速生徒にその通り説明した。

問2 要求されているのは、
(1) 中世の京都における
(2) 住民のあり方や構成の変化を書く

ことである。
 中世の京都であるから、鎌倉時代から戦国時代までだと考えてよいだろう。単純に考えれば、中世は武家政権が誕生し発展する時代であるから、構成の変化は武家人口の増加であろうと推測できる。

 教科書(山川『詳説 日本史』)から、鎌倉から戦国時代の京都の様子に関する内容を抜き出してみる。

ア (承久の乱後)幕府は皇位の継承に介入するとともに、京都には新たに六波羅探題をおいて、朝廷を監視し、京都の内外の警備、および西国の統轄にあたらせた。
イ (室町幕府の)有力守護は在京して重要政務を決定し、幕政の運営にあたった。また一般の守護も領国は守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するのが原則であった。
ウ (行商人には)京都の大原女・桂女をはじめ女性の活躍がめだった。京都などの大都市では見世棚をかまえた常設の小売店が一般化し、京都の米場・淀の魚市などのように、特定の商品だけを扱う市場も生まれた。
エ 京都のような古い政治都市にも、富裕な商工業者である町衆を中心とした都市民の自治的団体である町が生まれた。惣村と同じように、町はそれぞれ独自の町法を定め、住民の生活や営業活動を守った。さらに、町が集まって町組という組織がつくられ、町や町組は町衆のなかから選ばれた月行事の手によって自治的に運営された。応仁の乱で焼かれた京都は、これらの町衆によって復興され、祇園祭も町を母体とした町衆たちの祭として再興された。

 これらをまとめると、大筋は「
武家政権の成立にともない、京都内外の警備等にあたる武士が居住するようになり、さらに幕府の所在地となると、将軍をはじめ、在京する守護などの武家人口が増加した。一方経済の発達にともなって商工業者が活躍するようになり、やがて富裕な商工業者である町衆を中心とした都市民による自治が行われるようになった。」となる。

問3 要求されているのは
(1) 博多が発展した理由と、近世にかけてどのように変化したかを書く。
(2) 堺が発展した理由と、近世にかけてどのように変化したかを書く。


 これはリード文にヒントがある。下線部が施されている「11世紀後半頃から博多が、さらに14世紀後半頃から堺が発展をとげ」に着目したい。

 まずそれぞれが発展した理由について考えよう。
 博多は、博多→北九州→海外への窓口とイメージされるだろう。この海外への窓口ということをもとに教科書の記述を探すと、「
11世紀後半以降、日本と高麗・宋とのあいだで商船の往来が活発となり、12世紀に宋が北方の女真族の建てた金に圧迫されて南宋となってからは、さらにさかんに通商がおこなわれた。」(P.85)、さらにP.144には「日明貿易の拠点として栄えた堺や博多、(略)博多は12人の年行司とよばれる豪商の合議によって市政が運営され、自治都市の性格を備えていた。」とあり、まさにドンピシャである。

 一方は堺も上の通り「
日明貿易の拠点として、36人の会合衆とよばれる豪商の合議によって市政が運営され」ている。しかし、リード文には「14世紀後半頃から発展」とある。日明貿易開始は、15世紀のはじめであり、やや時期が合わない。教科書で堺に名が出てくるのは、「日明貿易で細川と結んだ」ところからであり、受験生にとってはこれが限界ではないかと思う。
 実際には和泉国の港町として瀬戸内海航路の要地として成長するのだが、ここは教科書の記述に基づいてというこのコーナーの原則に従うことにする。
 日明貿易の次に堺が登場するのは、「信長は、自治的都市として繁栄を誇った堺を武力で屈服させて直轄領とする」(P.150)、「(豊臣政権は)京都・大坂・堺・伏見・長崎などの重要都市も直轄にして豪商を統制下におき」(P.152)である。
 この後、文化面で堺の記述はあるが、省略する。
 江戸時代に入ると、朱印船貿易、糸割符制度のところで登場する。いわゆる五カ所商人の1つである。ここで入試のお約束は、「
五カ所商人に博多は含まれない」である。今回のテーマは博多と堺であるが、これがヒントになるのではないか。
 やがて
鎖国が完成すると、博多と堺の文字が教科書に見られなくなる。それは貿易の拠点が長崎に限定されたからだと判断できよう。

 ここまでをまとめると大筋は、「
博多は大陸との貿易のための港町として発展し、日明貿易では拠点の一つとなった。堺は日明貿易・南蛮貿易の拠点として発展し、両方とも自治都市として繁栄した。しかし鎖国体制になると、ともに衰退した。」となる。

 なお、山川の『日本史B用語集』のP.125には次のように記されている。
 博多:筑前国の港町。室町時代には九州探題が置かれ、また博多商人は大内氏と結んで勘合貿易に活躍した。一時豪商が町政を掌握して、自治都市として繁栄した。
 堺:和泉国の港町。15世紀後半より勘合貿易・南蛮貿易で繁栄した。会合衆による自治が行われ、平和で自由な都市としてガスパル=ヴィレラら宣教師にも注目された。織田信長の矢銭(軍費)2万貫要求を一時拒否したが、結局屈服。秀吉の大坂城築城に伴い、下大坂へ強制移住を命せられ、堺は衰微した。

 これをそのまま書くと、堺の衰退の原因は秀吉による強制移住であるが、受験生でこれを知っている者がどれほどいるだろうか。一橋大の出題者の意図は分からないが、流れは、「
ともに貿易拠点の港町として発展し、自治都市として繁栄したが、鎖国の形成とともに衰退した。」であろう。

問4 要求されているのは
 
江戸が巨大都市となった理由である。

 これは、『詳説 日本史』のP.191に「
将軍のお膝元である江戸には、幕府の諸施設や全国の大名の屋敷をはじめ、旗本・御家人の屋敷が集中し、その家臣や武家奉公人をふくめ多数の武家が居住した。また町人地には約1700余りの町が密集し、さまざまな種類の商人・職人や日用(日雇)らが集まり、江戸は日本最大の消費都市となった。」とあり、そのまま使える。

問5 要求されているのは、
(1) 近世に大名城下町が成立した理由
(2) 大名城下町が発展した理由


である。
 これも『詳説 日本史』のP.143~144に「
戦国大名は、城下町を中心に領国を一つのまとまりを持った経済圏とするため、領国内の宿駅や伝馬の交通制度を整え、関所の廃止や市場の開設など商業取引の円滑化にも努力した。城下には、家臣のおもな者が集められ、商工業者も集住して、しだいに領国の政治・経済・文化の中心としての城下町が形成されていった。」とあり、そのまま使える。

 以上を、全部で400字でまとめればよい。


<野澤の解答例>
1貴族・官人が住んでおり、生活は民衆が負担する調と庸に支えられていた。2武家政権の成立にともない、京都内外の警備等にあたる武士が居住するようになり、さらに幕府の所在地となると、将軍や在京する守護などの武家人口が増加した。一方、経済の発達にともなって商工業者が活躍するようになり、やがて都市民による自治が行われるようになった。3博多、堺はともに港町として発展し、日明貿易の拠点となり、自治都市として繁栄した。堺は南蛮貿易でも拠点となったが、鎖国体制下になると、ともに衰退した。4将軍のお膝元として旗本・御家人や大名とその家臣など多数の武家が居住した。またその消費を支えるため、様々な商人・職人らが集まったため。5大名が、家臣の主な者を集住させる一方、城下町を中心とした経済圏の構築を図り、商業取引の円滑化にも努力したため、商工業者も集住して、しだいに領国の政治・経済・文化の中心となっていったため。(398字) 

2012.3.30

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