2011年度 『一橋大学 その3』
 
第一次世界大戦後の国際情勢
                                           

【Ⅲ】問題はこちらPDFで開きます。

<考え方>
問1について。
(1) 第一次世界大戦後、「戦争の違法化」が進んだことについて
(2) 戦争の違法化を象徴する組織を一つあげるて、内容を説明する。
(3) 戦争の違法化を象徴する国際条約を一つあげて、内容を説明する。
(4) 日本政府の関与に触れる。


 組織は
国際連盟、国際条約はパリ不戦条約とすぐに見当はついたと思う。つまり、国際連盟とパリ不戦条約について、日本政府の関与に触れながら、その内容を説明すればよい。『詳説 日本史』から抜粋すると、

 
国際連盟については、P.304から
 (パリ講和会議では)国際紛争の平和的解決と国際協調のための機関として国際連盟の設立を決めた。(脚注)日本はイギリス・フランス・イタリアの3国とともに常任理事国となった。


 
パリ不戦条約については、P.318の脚注に、
 
1928年にパリで不戦条約に調印した。この条約は国際紛争解決のための戦争を非とし、国家政策の手段として戦争を放棄することを、「其ノ人民ノ名ニ於イテ」宣言したものであったが、翌年の批准に際して、日本政府はこの部分は天皇主権の憲法をもつ日本には適用されないと了解するものと宣言した。

 
この2つの項目をまとめればよい。

問2について。これは少し問題文の日本語のかかりかたがおかしい。

 
大戦後、アジア地域では、列強間の協調体制を構築するため、大規模な国際会議が開催された。軍備問題・中国問題を中心にして、その国際会議の内容と日本政府の対応を具体的に説明しなさい。

という設問だが、素直に読むと、「
アジア地域で大規模な国際会議が開催された」ととれる。しかし、第一次世界大戦後に軍備問題・中国問題を取り上げた国際会議はワシントン会議(海軍軍縮条約・九カ国条約)しか教科書には記されていない。
 おそらくこれは「
大戦後、アジア地域での列強間の協調体制を構築するために、大規模な国際会議が開催された。」と書くべきであったのだろう。
 これが東大の問題だったら、問題文の表現を信じて「アジアで開催された大規模な国際会議って何だろう?」と悩むところだが、一橋大学の日本史は、問題文に主語がないこともあるくらいだから、おそらくぼくの解釈で合っている。
 となると、ワシントン会議での海軍軍縮条約と九カ国条約について、その内容と日本政府の対応を書けばよい。

 『詳説 日本史』P.305~306から抜粋すると、

 
1921年、アメリカは海軍軍縮と太平洋および極東問題を審議するための国際会議を開催した。(ワシントン会議)。アメリカのおもな目的は、アメリカ・イギリス・日本の建艦競争を終わらせて自国の財政負担を軽減すると同時に、東アジアにおける日本の膨張をおさえることにあった。(略)ついで翌1922年、この4カ国に、中国および中国に権益を有する主要国4カ国を加えて九カ国条約が結ばれ、中国の領土と主権の尊重、中国における各国の経済上の門戸開放・機会均等を約束し、日米間の石井・ランシング協定は廃棄された。さらに同年、米・英・仏・日・伊の5大国のあいだにワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、今後10年間主力艦(戦艦・巡洋艦・航空母艦)を建造せず、主力艦の総トン数の比率をアメリカ・イギリス5、日本3、フランス・イタリア1.67とすることを定めた。日本国内では海軍とくに軍令部が対米英7割論を強く主張したが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が部内の不満をおさえ調印にふみ切った。またこの会議の場を借りて1922年に日中間交渉がおこなわれ、さきの九カ国条約にもとづいて、山東半島の旧ドイツ権益を中国へ返還する条約も結ばれた。(略)その背景には、アメリカがウィルソンの理想主義的外交から現実的な経済外交に方針を転換し、1920年代の日米経済関係もきわめて良好だったことがあげられる。

 ここから、

 ワシントン会議では、建艦競争を終わらせるため主力艦の10年間建造禁止とその保有比率を米・英5:日3に定めた海軍軍縮条約や、中国の門戸開放・機会均等を約した九カ国条約などが結ばれた。これにもとづき日米間の石井・ランシング協定が廃棄され、山東省での日本権益を中国へ返還したこと。その背景には建艦競争を終わらせることで財政負担を軽減することと、日米間の関係強化のねらいがあった。

という内容をまとめればよい。

問3について。
(1) 第一次世界大戦後、
(2) 日本の植民地であった朝鮮で、
(3) 民族独立運動の大きな高揚が見られたことに対し、
(4) 日本政府がとった対応を
(5) 具体的に


説明する。これは教科書にそのまま書いてある。『詳説 日本史』のP.305より

 
1919年3月1日に京城(ソウル)のパゴダ公園で独立宣言書朗読会がおこなわれたのを機に、朝鮮全土で独立を求める大衆運動が展開された(三・一独立運動)。この運動はおおむね平和的・非暴力的なものであったが、朝鮮総督府は警察・憲兵・軍隊を動員してきびしく弾圧した。しかし国際世論への配慮と、原内閣の方針により、現役軍人に限られていた朝鮮総督の資格を文官に拡大したり憲兵警察を廃止するなど、若干の改善もなされた。

これを訳せばよい。

以上を全部で400字以内でまとめる。


<野澤の解答例>
1国際紛争の平和的解決と国際協調のための機関として国際連盟が設立され、日本は常任理事国の一つとなった。また紛争解決の手段としての戦争を放棄するパリ不戦条約にも調印したが、「人民ノ名ニ於イテ」の部分は天皇主権の憲法をもつ日本には適用されないと宣言した。2ワシントン会議では、主力艦の10年間建造禁止とその保有比率を米・英5:日3に定めた海軍軍縮条約や、中国の門戸開放・機会均等を約した九カ国条約などが結ばれた。建艦競争を終わらせ財政負担を軽減することや、日米間の関係強化のねらいから日本はこれらに調印し、石井・ランシング協定が廃棄され、山東省での日本権益を中国へ返還した。3ソウルでの独立宣言の発表を機に、朝鮮全土で展開された三・一独立運動に対し、朝鮮総督府は警察や軍隊などを動員して厳しく弾圧したが、国際世論への配慮などから朝鮮総督の資格を文官に拡大したり、憲兵警察を廃止するなど若干の改善も行った。(399字) 

2011.3.18

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