【Ⅱ】問題はこちら (PDFで開きます。)
<考え方>
問1について。
(1) 井上馨の条約改正案の
(2) 内容と
(3) それが失敗した理由を
(4) 具体的に書く。
これは基本であろう。山川の『詳説 日本史』のP.263~264から抜粋すると、
日本国内を外国人に開放する(内地雑居)のかわりに、領事裁判権を原則として撤廃する改正案が、欧米諸国によっていちおう了承された。しかし、領事裁判権の撤廃に関しては、欧米同様の法典を編纂し、外国人を被告とする裁判には半数以上の外国人判事を採用するという条件がついていた。政府内部にもこれらの条件は国家主権の侵害であるという批判がおこり、井上が交渉促進のためにとった極端な欧化主義に対する反感とあいまって、改正交渉に反対する声が強くなり、井上は交渉を中止して外相を辞任した。
これにノルマントン号事件のことを書き加える手もあるとは思うが、基本的はこの内容を要約すればよい。
問2について。
(1) 「西洋流儀で日本の法律を制定した」
(2) という内容を具体的に説明する。
(3) その延長上で1890年に公布された法律を答える。
(4) その法律をめぐる論争の内容とその結果を
(5) 説明する。
一読して(3)と(4)とが民法と民法典論争のことだと判断できる。そうなるといわゆるボアソナード民法が、「○○」の延長上にあるという設問の解釈だが、これは2つの考え方ができる。AとBとおいて、関係する記述を『詳説 日本史』から抜き出す。
A 伊藤(博文)は、ベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインらから主としてドイツ流の憲法理論を学び、帰国して憲法制定・国会開設の準備を進めた。(P.259)
政府の憲法草案作成作業は、・・・ドイツ人顧問ロエスレルらの助言を得て、伊藤を中心に井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らが起草にあたった。(P.260)
B 西洋を範とする法典の編纂は明治初年に着手され、フランスの法学者ボアソナードを招いて、フランス法をモデルとする各種法典を起草させ、1880(明治13)年には刑法と治罪法(刑事訴訟法)を憲法に先行して公布した。その後も、条約改正のためもあって、民法と商法の編纂を急ぎ、1890(明治23)年には、民法、商法、民事・刑事訴訟法が公布され、法治国家としての体裁が整えられた。
これらのうち民法は、1890(明治23)年に大部分がいったん公布されたが、制定以前から一部の法学者の間で、家族道徳などわが国の伝統的な倫理が破壊されるとの批判がおこり、これをめぐって激しい議論がたたかわされた(民法典論争)。この結果、第三議会において商法とともに、修正を前提に施行延期となり、1896(明治29)年に、さきの民法を大幅に修正して公布された。こうしてできた新民法は、戸主の家族員に対する絶大な支配権(戸主権)や家督相続制度など、家父長制的な家の制度を存続させるものとなった。(P.262)
となる。つまり、
Aは、「外国の憲法を参考に明治憲法が制定され、その延長上に外国人(ボアソナード)主導で民法が制定された。」という解釈。
Bは、「ボアソナードを招いて、フランス法をモデルとする刑法と治罪法が制定され、憲法に先行して公布されていた。その流れの中で、フランス式の民法が制定された。」という解釈である。
どちらがよりふさわしいかはぼくには判断しかねるが、受験生の多くが思いつくのはAの方ではないかと考え、解答例はAで作成することにした。
問3について。 求められているのは、
(1) 山路愛山が、欧化政策は文化史の上では大きな影響を発揮したと評価していることを念頭に置いて
(2) 文学史について
(3) 井上馨の条約改正交渉の時期におきた大きな変化の重要性を
(4) 作品名と作者名をあげて
(5) 前後の時期にも触れながら
(6) 具体的に
説明する。これはいける。『詳説 日本史』のP.291~292から抜粋すると、
文学では、江戸時代以来の大衆文学である戯作文学が、明治初期も引き続き人気を博した。また、自由民権論・国権論などの宣伝を目的に、政治運動家の手で政治小説が書かれた。
戯作文学の勧善懲悪主義や政治小説の政治至上主義に対し、坪内逍遙は1885(明治18)年に評論『小説神髄』を発表して、西洋の文芸理論をもとに、人間の内面や世相を客観的・写実的に描くことを提唱した。言文一致体で書かれた二葉亭四迷の『浮雲』は、逍遙の提唱を文学作品として結実させたものであった。(略)
日清戦争前後には、啓蒙主義や合理主義に反発して、感情・個性の躍動を重んじるロマン主義文学が日本でもさかんになった。
つまり、「江戸時代以来の勧善懲悪を説く戯作文学や自由民権運動のための政治小説にかわって、西洋の文芸理論をもとに、人間の内面や世相を客観的・写実的に描く写実主義が坪内逍遙によって提唱され、言文一致体で書かれた二葉亭四迷の『浮雲』によって結実した。この流れの中で、日清戦争前後には、感情や個性を重んじるロマン主義文学がさかんになった。」という内容があればよい。
問4について。
(1) 井上馨の施策に対し、
(2) 徳富蘇峰が『国民之友』の誌上で
(3) どのような批判を展開したか
(4) 具体的に
説明する。これも教科書から抜き出せる。『詳説 日本史』P.287の脚注より
蘇峰は民友社をつくって雑誌『国民之友』を刊行し、政府が条約改正のためにおこなった欧化政策を貴族的欧化主義と批判して、一般国民の生活の向上と自由を拡大するための平民的欧化主義の必要を説いた。
そのままでよいと思う。
以上を全部で400字以内でまとめる。
<野澤の解答例>
1法権回復の見返りに内地雑居と外国人判事の任用を認めるという改正案は、国家主権の侵害であるという批判がおこり、交渉反対の声が強くなり、交渉は中止された。2ドイツ流の憲法理論をもとに大日本帝国憲法が制定されるなど、西欧を範として諸法典が編纂された。そのうち1890年に公布された民法に対して一部の法学者から、わが国の伝統的な倫理が破壊されるとの批判がおこり、民法典論争の結果、家父長制的な家制度を存続させる新民法が制定・施行された。3戯作文学や政治小説にかわって、西洋の文芸理論をもとに、人間の内面などを客観的・写実的に描く写実主義が坪内逍遙によって提唱され、言文一致体で書かれた二葉亭四迷の『浮雲』によって結実した。そして日清戦争前後には、感情や個性を重んじるロマン主義文学が盛んになった。4政府の欧化政策を貴族的欧化主義と批判し、一般国民の生活の向上と自由を拡大するための平民的欧化主義の必要を説いた。 (400字)
2011.3.17
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