2010年度 『一橋大学 その2』  
                                           

【U】次の表は、1920(大正9)年から1970(昭和45)年までの時期の市町村を人口規模によって、(1)50万人、(2)10万人以上50万人未満、(3)5万人以上10万人未満、(4)5万人未満の4つのグループに分け、それぞれのグループの総人口の推移を示したものである。これをみて、下記の問いに答えなさい。(問1から問4まで全てで400字以内)

表 人口規模別市町村人口  (単位:千人)

年次 (1)50万人以上 (2)10〜50万人 (3)5〜10万人 (4)5万人未満
1920 4,626 2,127 2,105 47,119
1930 7,605 3,876 4,402 49,566
1935 12,645 4,873 3,685 48,051
1940 14,384 6,907 3,858 47,964
1945 5,969 5,045 5,397 55,585
1950 11,190 10,136 6,307 55,566
1960 18,492 19,310 10,724 44,892
1970 25,418 28,109 12,364 37,829

注:各年10月1日現在。1945年は11月1日現在。
1940年10月時点では、(1)が東京市、大阪市、名古屋市、京都市、神戸市、横浜市の6市、(2)は広島市、福岡市、川崎市、八幡市、尼崎市など計39市、(3)は久留米市、長野市、山形市など計54市、(4)はそれ以外の全市町村である。

問1 1930(昭和5)年から1935(昭和10)年の間に、(1)と(2)の人口が増加し、(3)と(4)の人口が減少した。このような人口集中を導いたこの時期の国家的な政策について説明しなさい。
問2 (1)と(2)の人口増加は、1935(昭和10)年から1940(昭和15)年の間にもみられた。このような人口集中を導いたこの時期の国家的な政策について説明しなさい。
問3 1940(昭和15)年から1945(昭和20)年の間に、(1)と(2)の人口が減少し、(3)と(4)の人口が増加している。この変化がこの5年間に起きた理由は大きく分けて、戦時下の政策的な対応によるものと戦況の変化そのものとに求められる。このことを具体的に説明しなさい。
問4 1950(昭和25)年から1970(昭和45)年にかけて、(1)(2)(3)とは対照的に、(4)の人口だけは一貫して減少する。この原因にはこの期間の市町村合併もあげられるが、それにもまして日本の産業構造の変化が大きな原因となっている。この変化の中で日本農業がどのように変わったかを、1961(昭和36)年に制定された法律を含めて具体的に説明しなさい。


<考え方>
 まずは表を整理してみよう。
(1)は、東京、大阪、名古屋、京都、神戸、横浜という
大都会
(2)は、広島、福岡、川崎、八幡(現在の北九州市)、尼崎という
地方工業都市
(3)は、九州、甲信越、東北の
地方都市
(4)は、その他の市町村、つまり
田舎

問1 1930年から1935年というと浜口雄幸内閣→第2次若槻礼次郎内閣→犬養毅内閣→斎藤実内閣→岡田啓介内閣である。この間に大都市と地方工業都市の人口が増加している理由を政策面から述べるわけである。
 この時期には満州事変とか五.一五事件、国際連盟脱退など多くの事件が起こっているが、都市や地方の生活者に影響を与えるような出来事というと、1930年に昭和恐慌が起こり、都市では企業倒産が相次ぎ、東北の農村では「欠食児童・女子の身売り」という状態となったこと。そこから1933年には世界恐慌以前の生産水準に回復した。そのために国家的政策として何をしたのか。それが都市人口に関係していないかを考えたい。
 この間の政府の経済政策とその結果に関する記述を、山川のP.324から325から箇条書きに抜き出すと次のようになる。
@高橋是清蔵相は、金輸出を再禁止して管理通貨制度に移行した。
A恐慌下で産業合理化を進めていた諸産業は、円相場の大幅な下落(円安)を利用して、飛躍的に輸出を伸ばした。
B綿織物業の輸出拡大はめざましく、イギリスを抜いて世界第1位となった。
C加えて赤字国債の発行による軍事費・農村救済費を中心とする財政の膨張で産業界は活気づいた。
D軍需と保護政策に支えられて重化学工業がめざましく発達した。
E鉄鋼業では八幡製鉄所を中心に行われた大合同で国策会社日本製鉄会社が生まれ、鋼材の自給が達成された。

 これらから、高橋財政の積極政策のもと、綿織物業や重化学工業が発達し、工場での労働者需要が拡大したことがうかがえる。

問2 1935年から1940年というと1936年の二.二六事件、1937年に日中戦争開始。1938年国家総動員法。翌年国民徴用令と、戦時体制が強化されていく時期である。この時期都市人口が増えた理由である。
 教科書P.332から箇条書きに抜き出すと、
@戦争の拡大にともなって国家総動員法に基づいて国民徴用令が出され、一般国民が軍需産業に動員されるようになった。
A重化学工業中心の新興財閥ばかりでなく、既成財閥系の大企業も積極的に軍需品生産に乗り出し、「国策」への協力でばく大な利益をあげた。

 これは、@をそのままでいけると思う。

問3は、設問にはっきりと太平洋戦争下で、都市人口が減り、地方の人口が増えた理由を、ア政策面とイ戦況の影響の2つの視点から書けとある。
 これはP.342、343にある。
@軍隊に動員された青壮年男子は400万人から500万人に達したので、日本国内で生産に必要な労働力が絶対的に不足した。
Aサイパン島からの米軍機による本土空襲が激化した。空襲は当初軍需工場の破壊を目標としていたが、国民の戦意喪失をねらって都市を焼夷弾で無差別攻撃するようになった。
B軍需工場の地方移転、住民の縁故疎開や国民学校生の集団疎開もはじまった。

問4 1950年から1970年にかけて、日本農業がどのように変化したかを、
地方の人口が減少した理由産業構造の変化を踏まえて、1961年に制定された法律を必ず用いて書く。

 1960年代に農業の構造改革を進めた法律は、「農業基本法」である。これは基本!山川のP.371の脚注に
@1961年に農業基本法が制定され、農業構造改革事業に多額の補助金が支給された。
P.372の本文に
A高度経済成長は、国土のありさまと国民の生活様式や意識を大きく変容させた。太平洋側を中心に製鉄所や石油化学コンビナートなど新工場の建設が続き、京浜・中京・阪神・北九州の各地域を中核とする帯状の巨大な重化学工業地帯が出現して、産業と人口が著しく集中した。これとともに全国で、農村部から大都市圏にむけての大規模な人口移動が生じ、同時に耕耘機や小型トラクターが普及して農耕の機械化・省力化が進み、兼業農家が増加した。
P.374の本文に
B高度経済成長の達成の裏面には深刻な問題が生み出された。農村部では過疎化の進行が農村の共同社会としての機能を衰弱させ、また米をわずかな例外として、日本の食糧自給率は急激に低下した。

とある。

 これをまとめればよい。 ただし聞かれているのは「
日本農業の変化」であることを忘れないこと。

<野澤の解答例>
1昭和恐慌から脱出するため、高橋財政のもと金輸出を再禁止して管理通貨制度に移行するとともに、円安を利用して綿織物を中心に輸出を伸ばした。加えて赤字国債の発行による軍事費の増大によって産業界は活気づき、綿織物業・重化学工業での都市部の工場労働者需要が拡大した。2日中戦争の拡大にともなって国家総動員法に基づいて国民徴用令が出され、一般国民が軍需産業に動員されるようになった。3太平洋戦争で多数の成人男性が軍隊に動員され、国内の人口が大幅に減少する一方、米軍機による本土空襲の激化にともない、軍需工場の地方移転、住民や児童の都市部から地方への疎開が行われた。4農業基本法が制定され、農業構造の改革が図られたが、高度経済成長によって産業と人口は都市部に著しく集中した。そのため農村部から大都市圏にむけての大規模な人口移動が生じ、農村部の過疎化が進行する一方、農耕の機械化・省力化が進み、兼業農家が増加した。
 (400字)


参考:駿台予備校の模範解答

参考:河合塾の模範解答

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2010.3.17