2010年度 『一橋大学 その1』  
                                           

【T】次の文章を読んで下記の問いに答えなさい。(問1から問4まですべてで400字以内)

 近世は、当初から一定の商品・貨幣経済の展開を前提として出発した。(1)近世初頭の農村においても、自給経済を基調としながらも、ある程度の商品・貨幣経済の浸透がみられた
 18世紀以降になると、全国の農村で広く(2)四木三草をはじめとする商品作物の栽培や農村工業・商業の発展がみられ、多様な生業がさかんに営まれた。(3)こうした商品・貨幣経済の進展は領主の財政にも深刻な影響を与えた。社会全体が大きく変わっていったのである。
 幕府もこのような変化を座視していたわけではなく、10代将軍家治のもとで幕府の実権を握った[  ア  ]や、12代将軍家慶のもとで改革政治を断行した[  イ  ]は、それぞれ違ったかたちで、(4)商品・貨幣経済の進展に対応する政策を打ち出した。

問1 下線部(1)について、近世初頭の農村においてどのようなかたちで商品・貨幣経済が浸透していたのか、具体的に説明しなさい。
問2 下線部(2)の「四木」とは何か。
問3 下線部(3)について、こうした商品・貨幣経済の進展が領主財政に対していかなる影響を与えたか。またそのような影響が生じたのはなぜか。説明しなさい。
問4 [  ア  ]、[  イ  ]に入る人名は誰か。また、下線部(4)について、[  ア  ]、[  イ  ]が実施した政策をそれぞれ一つあげ、その内容を説明しなさい。

<考え方>
問1 問題を見たとき、大学時代の恩師である脇田修先生が、雑談の中で言われたことを思い出した。
(甲高い声をイメージしてください。)
 
「江戸幕府は最初から矛盾があったんや。農村は自給自足経済だといいながら、支配者である武士は貨幣経済を前提としとる。自分らは百姓がつくったもんを売ったり買ったりして生活しときながら、おまえら(農民)は金使うななんて、そんなことできるわけがない。江戸幕府は260年間もようもったんや。」
 極端な言い方をすれば、これが答えだと思う。しかしここでは「教科書を使って解答をつくる」のが目的なので、これでは意味をなさない。そこで山川の教科書中で「農村と商品、貨幣」について書かれている場所を探してみた。

P.125 室町時代の「農業の発達」より、「農村加工業の発達により、これらが商品として流通するようになった。このような生産性の向上は農村を豊かにし、物資の需要を高め、
農村にもしだいに商品経済が浸透していった。」
P.127 室町時代の「商工業の発達」より、「商品経済がさかんになると、貨幣の流通が著しくふえ、農民も年貢・公事・夫役を
貨幣で納入することが多くなった。」
P.168 「田畑ではたばこ・木綿・菜種などの
商品作物を自由に栽培することを禁じたりした(田畑勝手作りの禁)。」
P.183 「また綿などの商品作物生産が発達したところでは、干鰯・〆粕・油粕などが
金肥として普及した。」
P.184 「農業の生産力が急速に高まると、余剰米を商品としたり、桑・麻・・・などをを
商品作物として生産して販売し、貨幣を得る機会が増大した。こうした取引は城下町や在郷町の市場でおこなわれ、多くの村々はしだいに商品流通にまき込まれるようになった。」

 抜き出せるのはこれぐらいではないか。まとめてみると、
(1)室町時代から年貢の銭納(貨幣納)が行われるなど、農村は貨幣経済・商品経済の中にあった。
(2)室町時代に続いて、江戸時代でも初期から商品作物が作られており、貨幣を得る機会があった。
(3)金肥や新しい農具など、貨幣での取引を前提としたものがあった。
(4)商品作物の取引は城下町や在郷町で行われた。

 これをつなげばできそうだが、一つだけ受験生ならだれもが理解している項目を書き足さなければ、答案の文章として成立しないだろう。そのヒントが(4)の「城下町」である。「
兵農分離によって都市生活での消費生活をおくるようになった武士や町人」のニーズに応じて商品作物を栽培したという点である。
 これは教科書の抜き書きでは記せないが、できなければならず、悪問とは言えない。

問2 解説の余地なし

問3 何を問われているかをしっかりと確認したい。「
領主財政に与えた影響」である。これも教科書から関連する事項を抜き出したいのだが、正直言って「弱ったなぁ。」といった感覚である。
 山川のP.197には史料として「大名の窮乏」があげられている。この史料のとおりなのだが、本文中に「まさにここだ!」というものがない。「山川の教科書で」と銘打っている以上反則だが、阪大の解説に用いている
実教の教科書から引用させてもらった。

実教P.215より
「17世紀後半以降の商品経済の発展は、社会に大きな変化をもたらした。売ることを目的とした商業的農業の展開によって、農民は、農業経営に失敗して土地を失い、賃稼ぎや小作をおこなう者と、土地を集積し経営を拡大する者とに階層分化していった。このような本百姓経営の解体化傾向は、領主が農民から安定的に年貢米を得ることを困難にし、封建制の基礎をゆるがすことになった。また、都市での商品需要の増大は、諸物価の上昇をまねき、幕府や藩の出費は増える一方であった。ところが、米価は他の商品にくらべそれほど上昇しなかったため、年貢米を売って必要物資の購入にあてていた幕府は藩の財政はますます悪化し、藩は大坂の豪商などからの借金にたよらざるをえなくなった。」

 これ、ずばりでしょ!

問4 ア田沼意次、イ水野忠邦は問題ない。問われているのは「商品・貨幣経済の進展に対応する政策」そして「それぞれ一つ」である。
田沼については山川のP.203より
「意次はゆきづまった幕府財政を再建するために、年貢増徴だけにたよらず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源にとりこもうとした。そのため、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上や冥加など営業税の増収をめざした。」
忠邦についてはP.211より
「物価騰貴の原因は、十組問屋などの株仲間が上方市場から商品流通を独占しているためと判断して、株仲間の解散を命じた。幕府は江戸の株仲間外の商人や、江戸周辺の在郷商人らの自由な取引による物価引下げを期待したのである。しかし物価騰貴の原因は、生産地から上方市場への商品の流通量が減少して生じたもので、株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量をとぼしくすることになり、逆効果となった。」

これらを要約すればよい。

<野澤の解答例>
1室町時代から年貢の銭納など貨幣が利用されていたことに加えて、兵農分離の進行によって都市での消費生活を送るようになった武士や町人のための商品作物栽培や、金肥・農具などの購入による。2桑・漆・楮・茶。3商品経済の発展は本百姓の階層分化を招き、領主が安定的に年貢米を得ることを困難にした。また都市での商品需要の増大によって諸物価は上昇し、領主の出費は増える一方であった。しかし米価は他の商品に比べて上昇率が低く、年貢米を売って必要物資の購入にあてていた藩財政はますます悪化し、豪商等からの借金に頼らざるをえなくなった。4ア田沼意次。イ水野忠邦。田沼は経済発展で得られる富を財源に取り込むため商工業者の株仲間を広く公認し、運上や冥加など営業税の増収をめざした。水野は物価騰貴の原因を株仲間による商品流通独占と判断して、株仲間の解散を命じたが、かえって江戸への商品輸送量を乏しくすることになり逆効果となった。 (400字)


参考:駿台予備校の模範解答

参考:河合塾の模範解答

2010.3.16

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