2009年度 『一橋大学 その3』  
                                           

【V】戦前期日本の陸海軍について、下記の問いに答えなさい。(問1から問3まですべてで400字以内)

問1 陸海軍のあり方を支えた制度の一つに「統帥権の独立」があった。この「統帥権の独立」について、参謀総長・軍令部長(1933年以降は軍令部総長)の果たす役割にも言及しながら、具体的に説明しなさい。
問2 「統帥権の独立」の解釈が政治的対立の重要な争点となった事件があった。解釈の相違に留意しながら、その事件の経緯を具体的に説明しなさい。
問3 アジア・太平洋戦争の敗戦後、ポツダム宣言に基づき陸海軍の武装解除と復員が行われた。これと並行して、GHQは、経済改革・教育改革など、広範囲な非軍事化・民主化政策を次々に実施したが、直接的な非軍事化政策の要となる政策を二つあげ、その内容を具体的に説明しなさい。

<考え方>
問1および問2について。「統帥権の独立」という言葉を知らない受験生はいないであろうが、参謀総長・軍令部長はいずれも山川の用語集で掲載度B、つまり出版されている日本史Bの教科書11種類のうち、3冊にしか掲載されていないマイナー用語である。(統帥権はもちろんJ)
「統帥権」という言葉で最初に思いつくのは、「統帥権干犯問題」であろう。これが問2の主題になっていることは言うまでもない。この「統帥権」関係で記されている山川の教科書の記述は次のとおりである。
(1)P.260「天皇は統治権のすべてをにぎる総覧者であり、文武官の任免、国防方針の決定、陸海軍の統帥、宣戦・講和や条約の締結など、議会の関与できない大きな権限を持っていた(天皇大権)。また、このうち陸海軍の統帥権は、内閣からも独立して天皇に直属していた(統帥権の独立)。」
(2)P.321「(ロンドン海軍軍縮条約の調印に対し)野党立憲政友会、海軍軍令部、右翼などは、海軍軍令部長の反対をおし切って政府が兵力量を決定したのは統帥権の干犯であると激しく攻撃した。政府は枢密院の同意を取り付けて、条約の批准に成功したが、同年11月には浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷をおい、翌年、退陣後まもなく死亡した。」
(3)P.321の脚注「軍の最高指揮権である統帥権は天皇に属し、内閣が管掌する一般国務から独立し、その発動には参謀総長。海軍軍令部長が直接参与した。憲法解釈上通説では、兵力量の決定は憲法第12条の編制大権の問題で、内閣の輔弼事項であり、第11条の統帥大権とは別であった。しかし、帝国国防方針中で、国防に要する兵力に責任をもつべきであるとされていた海軍軍令部とのあいだでは意見が一致しなかった。また条約の批准には枢密院の承認が必要であったので、政府は海軍軍令部と枢密院の二つの国家機構との対決をせまられた。」

 確かに教科書にある。しかし受験生の中で、この(3)までしっかり読んでいた者がどれくらいいるのだろう。国立大学の入試問題としてそこまでの知識を要求するのか。何かすっきりしないが、問1、問2あわせてこの(1)〜(3)をまとめるしかない。なお、「山川の歴史用語集」には、統帥権の項目に「軍政機関(陸海軍省)からも分離独立する天皇大権とされる。帷幄上奏とは、軍政上の事項に関して参謀総長・軍令部総長・陸海軍大臣が直接天皇に上奏する機能。軍部による内閣の政治介入の手段となった。」とある。

問3 設問文が長いが、問われていることは、
@GHQが行った直接的な非軍事化政策の
要となる政策
A2つ
Bその内容を具体的に説明する

 教科書P.348に「国の内外に配備された陸・海軍の将兵約789万人の武装解除・復員が進み、日本の軍隊は急速に解体・消滅した。1945年9月から12月にかけて、GHQは軍や政府首脳など日本の戦争指導者たちをつぎつぎに逮捕したが、うり28名がA級戦犯容疑者として起訴され、1946年5月から東京に設置された極東国際軍事裁判で裁判がはじまった(東京裁判)。」
とある。これから2つ選ぶと、「陸海軍の解体と東京裁判による戦争指導者に対する処罰」である。しかし、もう一つ「憲法第9条による戦争放棄と戦力の不保持」とも考えられる。「
直接的な非軍事化政策」という点では、戦力の不保持はより直接的である。しかし、こちらを正解とすると、「日本国憲法第9条の平和主義は、国民の意思ではなく、あくまでもGHQによる政策であった」と一橋大学としては主張していることになる。それもどうかとぼくには思える。もしかしたら、そこまで深く考えていないのかもしれないが、ぼくとしてはやはり、
@陸海軍の解体
A極東国際軍事裁判による軍や政府首脳など戦争指導者に対する処罰
の2つとしたい。

以上を400字以内でまとめる。


<野澤の解答例>
1陸海軍の最高指揮権である統帥権は、大日本帝国憲法の規定では天皇大権の一つとされており、内閣が管掌する一般国務から独立して、その発動には参謀総長・海軍軍令部長が直接参与した。21930年、浜口雄幸内閣は、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。これに対し野党、海軍軍令部、右翼などは、海軍軍令部長の反対をおし切って政府が兵力量を決定したのは統帥権の干犯であると激しく攻撃した。憲法解釈上通説では、兵力量の決定は憲法で定める編制大権の問題で、内閣の輔弼事項であり、統帥大権とは別であった。しかし、帝国国防方針中で、国防に要する兵力に責任をもつべきであるとされていた海軍軍令部とのあいだでは意見が一致しなかった。政府は枢密院の同意を取り付けて、条約の批准に成功したが、浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃される事件が起こった。3陸海軍を解体し、極東国際軍事裁判によって軍や政府首脳など戦争指導者に対する処罰を行った。(400字)

 しかし2は、普通に考えて受験生には書けない思う。ぼくとしては、
1930年、浜口雄幸内閣は、補助艦の保有比率を対英米7割に制限するロンドン海軍軍縮条約に調印した。これに対し野党であった立憲政友会、軍部、右翼などは、海軍軍令部長の反対をおし切って政府が兵力量を決定したのは、統帥権の干犯であると激しく攻撃した。政府は枢密院の同意を取り付けて条約の批准に成功したが、浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃され、翌年死亡する事件が起こった。

と書ければ充分だと思う。315字になってしまうけど。


参考:駿台予備校の模範解答

参考:河合塾の模範解答

2010.3.8

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