2006年度 『一橋大学 その2』  

【U】 大日本帝国憲法(明治憲法)について、次の問いに答えなさい。(問1から問3まですべてで400字以内)
問1 明治憲法の制定は、日本における政党政治の発展にとって重要な意義を持った。明治憲法の内容に即しながら、その理由を具体的に説明しなさい。

問2 その一方で、明治憲法は政党政治の発展にとっての障害ともなった。明治憲法の内容に即しながら、その理由を具体的に説明しなさい。

問3 明治憲法では、国務各大臣が天皇を直接補佐する方式がとられているため、総理大臣の権限は決して大きなものではなかった。明治憲法の制定後、総理大臣の権限を強化するために、どのような措置が講じられるようになったのか、
具体的に説明しなさい。

<考え方>
問1と問2は裏表である。ここは明治憲法が政党政治に与えたプラス面とマイナス面を、教科書レベルの知識から書き出すことで整理したい。

問1:プラス面
@第1回帝国議会から予算案を巡って紛糾した。
A第3次伊藤博文内閣は、憲政党結成の前に議会運営の見通しを失って退陣し、最初の政党内閣である第1次大隈重信内閣(隈板内閣)が成立した。
B昭和天皇の侍講でもあった憲法学者美濃部達吉の「天皇機関説」が、政党政治を正当化する論拠となった。

→帝国議会は天皇の立法権の協賛機関とされた(草案では「承認」となっていたが枢密院の審議で「協賛」に修正された)が、実際には内閣が立法や予算を制定するには議会の協力が必要であった。しかも選挙で選ばれた議員からなる衆議院と貴族院の立場は対等であったから、超然内閣といえども衆議院を無視できなかった。
 第4条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ
此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」が「天皇機関説」の根拠となり、政党政治を正当化した。

問2:マイナス面
@天皇は元老とよばれる藩閥政治家らの推薦に基づいて首相を任命した。
A貴族院も制約となったことは、立憲政友会を組織して第4次内閣を組織した伊藤博文が貴族院の反対に苦しめられて退陣したことからも分かる。
B第2次西園寺公望内閣が「陸軍のストライキ」で倒れたのをはじめ、数々の内閣が軍部に苦しめられた。
C金融恐慌の沈静化のために第一次若槻礼次郎内閣が提出した「台湾銀行救済勅令案」を、協調外交に不満だった伊東巳代治を議長とする枢密院が認めず、若槻内閣は退陣に追い込まれた。
D「天皇機関説問題」に対して、岡田啓介内閣は「国体明徴声明」を発してこれを否定し、上杉慎吉らが主張する天皇主権説を正当とした。

→首相の任命は天皇の権限であり、天皇に首相を推薦する元老の支持がなければ、いくら衆議院の第一党の党首であっても政党政治家が内閣を組織することはできなかった。また貴族院が衆議院と対等の権限を与えられていたことも政党政治の妨げとなった。
 第11条の「
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」により軍部が独立していたことで多くの内閣が苦しめられた。このほか天皇の諮問機関であった枢密院も内閣の妨げとなることがあった。
 第1条に「
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」が天皇主権説の根拠となり、政党政治の障害となった。

 衆議院と貴族院の権限が対等であったことは、+−両面がある。ここでは重複して記すことは避けたい。

問3 正直言って、ぼくにとってこれが今までで一番難しかった。首相の地位・権限が次第に高められ、内閣の首長となっていったことは、教科書・センターレベルでも何となく分かると思う。
 例えば、第1次大隈重信内閣(隈板内閣)が4ヶ月で崩壊した原因は、尾崎行雄が政党員の大臣ポストや知事ポストなどを求める猟官運動、拝金主義を批判した共和演説事件であったから、首相が大臣を選べたのであろうことは見当が付くと思う。また原敬が暗殺された後、高橋是清が全閣僚留任という形で内閣を率いたのも、首相がいてこその内閣であったことを物語るし、木戸幸一が東条英機を首相に推薦したということが、教科書本文中に記されることも、「誰が首相になるか」が問題であったことをうかがわせる。
 しかし、「明治憲法の制定後、総理大臣の権限を強化するために、どのような措置が講じられるようになったのか、具体的に説明しなさい。」となると、教科書のどの部分を用いて述べればいいのか見当が付かない。(ぼくの勉強不足ならば申し訳ない。)

 強いて言えば、山川の「詳説日本史」のP332の脚注に
企画院の説明として「1937年(昭和12)年10月に、戦時動員の計画・立案・調整を任務とする内閣直属の機関として設置されたが、経済界の強い反発もあって、43(昭和18)年新設の軍需省に吸収・合併された。」とある。ここから企画院を取り上げるかである。

  しかし問1、問2の流れから考えると、東条内閣、企画院は戦時体制という非常事態の中での話であり、これが明治憲法云々のテーマに結びつくとはどうしてもぼくには思えない。出題のテーマはあくまで明治憲法が政党政治に与えた影響だとぼくは思う。

 それでも解答を作成するなると、ぼくは公式令(こうしきれい)しか思い付かない。公式令とは、明治40年勅令第6号のことであり、1907年に制定され1947年に廃止された日本の法令で、天皇の行為により作成される文書の様式・基準を定めたものである。
 明治憲法では問題文にもあるとおり「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とあり、首相は「同輩中の首席」を意味すると解された。
 これに対して公式令は、詔書、勅書、勅令、国際条約等には天皇の親署、御璽の後、首相(場合によっては担当大臣と首相)が副署すると定めたものである。つまり、最重要文書には必ず首相の署名が必要となったわけで、
首相が実質上、行政の責任者であると定めたものと言える。

 しかし、これを現役の受験生に要求するのか。ぼくの解答例はあくまで現役の受験生が教科書を使って作成できるものを目指している。実際、
今までの東大、京大、阪大の問題については、全て教科書の記述の範囲内でまかなってきた。そういう意味ではこの一橋大学の【2】の問3は、ぼくにとってGive upである。
 できることならば、一橋大学のこの問題を出題した先生に「教科書のどの部分をどのように答えさせることを狙って出題されたのか」と聞いてみたいところである。

<野澤の解答例>
1帝国議会は天皇の立法権の協賛機関とされたが、実際には立法や予算の制定には議会の協力が必要であり、超然内閣といえども衆議院を無視できず、政党は次第に影響力を拡大していき、政権を獲得するにいたった。また、憲法の規定が美濃部達吉の天皇機関説の根拠となり、政党政治を正当化した。(133字)
2首相の任命は天皇の権限であり、元老等の支持がなければ、政党政治家が内閣を組織することはできなかった。また衆議院と対等の権限を持つ貴族院も制約となった。統帥権の独立を盾に軍部がしばしば内閣と対立し、天皇の諮問機関であった枢密院も内閣の妨げとなることがあった。第一条の統治権の規定が天皇主権説の根拠となり、政党政治の障害となった。(163字)
3規定上は各大臣の地位は対等でも、実際には元老等も内閣総理大臣を天皇に推薦するのみであり、組閣は首相に委ねられた。その結果、軍部大臣以外の閣僚の選定には首相の意思が反映され、政府内で強い権限を持つことになった。(104字)(総計400字)

参考:駿台予備校の模範解答
1帝国議会には、予算・法律制定権が認められたため、政府は政党との間の妥協が必要であった。また、明治憲法第四条には、天皇は「憲法ノ条規ニ依リ」統治権を総攬するとの規定があり、これを根拠に美濃部達吉らが天皇機関説を主張し、政党内閣を法的に正当化することが可能となった。
2明治憲法は、統帥権の独立に象徴されるように内閣に権力を集中する構造にはなっていなかったので、政党内閣が成立した場合、軍部は内閣としばしば対立した。また条約の批准権や緊急勅令の認可権を持つ枢密院も内閣を制約した。しかも、第一条の規定を根拠とする天皇主権説も政党内閣の障害となった。
3内閣総理大臣の権限を強化する試みは、戦時体制の形成とともに進められた。日中戦争勃発後に設置された企画院は、総理大臣に直結する機関として、戦時統制経済で中心的役割を果たし、太平洋戦争中に東条英機首相は参謀総長を兼務して、国務と統帥の統一を図ろうとした。(400字)


 
実は、旺文社が発行している「大学入試問題集」の解答例も、問3は駿台予備校と同じく企画院を軸に書かれている。
 一橋大学の出題者が用意した解答は、ぼくも駿台も旺文社も考えていなかったものなのだろうか。
 旺文社の問題集にはこの問3について、「難問」と記されていた。駿台も問3については「こういう理解は、あまり聞いたことがない」と記しているが、もし公式令か企画院のことを答えさせようとしたのだとすれば、この一橋大学の問題は、「難問」ではなく「悪問」と言えるとぼくは思う。


2006.12.03

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