2006年度 『一橋大学 その1』  
                                           

【T】次の史料を読んで、下記の問いに答えなさい。史料は書き下しの上、一部改変したり省略したりしたところがある。(問1から問3まですべてで400字以内)
※問題文中の赤字青字は、解説のために野澤が着色しました。

A 
永楽庚子春、予、命を受けて日本に使す。東溟に泛びて馬島に到り、兵余の地を見、残兇の俗に諭す。一岐(壱岐)に危ぶみ、九州に説び、志河(志賀)を発して東し、赤間関に入り、唐島を歴て肥厚(備後)を過ぎ、倭王の所に至る。往還万余里、惟に風濤の険、海賊の暴のみならず、乃ち国家馬島に行兵するの翌年の春なれば、島倭、朝鮮の兵船の再来を以謂い、中より浮動して守禦を罷めず。予の帰くを見て皆喜心ありて、即ち守禦を罷むるなり。(宋希ケイ[王+景]『老松堂日本行録』)

B 大仏ニ立ち寄られ候様ニとの事も、一つハ日本ニ珍らしき大仏これ有りと申す事を御しらせ成られ、一つハ
耳塚を御見せ成られ、日本之武威をあらはさるべくとの事と相い聞こへ候へども、何れも飄逸なる御所見ニ候。(中略)耳塚とても豊臣家無名之師を起こし、両国無数之人民を殺害せられたる事に候へバ、其の暴悪をかさねて申すべき出来ニ候ひて(中略)華耀之資には成り申さず。却って我が国之不学無識をあらはし候のミニて御座候。
  誠信之交と申す事、人々申す事ニ候へとも多くハ字義を分明ニ仕らざる事これ有り候。誠信と申し候ハ実意と申す事ニて、互ニ欺かず争はず真実を以て交リ候を誠信とは申し候。(雨森芳洲『交隣提醒』)

問1 史料Aの日本への使節は、下線部の事件の翌年に派遣されているが、この事件の名称と
事件が起きた背景を答えなさい。
問2 史料Bの大仏がある
寺の名称を答えなさい。また、この寺及び大仏は、当代の政治あるいは政治的事件と密接に関わりあったのであるが、そのうち2つを指摘しなさい。
問3 
15世紀から18世紀までの、上の史料に取り上げられている国と日本との関係・交流の推移について、次の年に起きた出来事に重点をおいて説明しなさい。
〔1510年 1592年 1609年〕

<考え方>
@史料AとBをもとに書く。
A問1、問2はそれぞれの下線部に関して、事件名等の用語を記した上で、設問に答える。
B問1から問3まですべてで400字以内である。

 まずAとBの史料が何を指しているかを判断しなければならない。AとBで取り上げられている国は同じであることは、設問3からも分かるし、
赤字にしたA中の朝鮮やB中の耳塚、豊臣家から朝鮮のことだと判断できる。

問1について。永楽という言葉ですぐにイメージされるのは明の永楽帝(在位1402年 - 1424年)である。永楽帝の治世下に朝鮮の兵船が馬島に行兵をした。文中の
壱岐という語句がなくても、室町時代に朝鮮が日本へ出兵したというのは1419年の応永の外寇しかない。あとは教科書や用語集の応永の外寇の記述を書けばよい。例えば、山川の教科書では「倭寇の禁止や日朝貿易に積極的であった対馬の宗貞茂が死去し、倭寇の活動が活発化すると、1419年、朝鮮軍は倭寇の本拠地と考えていた対馬を襲撃した。」とある。ここで落としてはならないのは、事件が起きた背景となる「対馬の宗貞茂が死去し、倭寇の活動が活発化した」という部分であることは言うまでもない。

問2について。設問に「この寺及び大仏は、当代の政治あるいは政治的事件と密接に関わりあった」とあるので、方広寺の大仏と分かる。方広寺を巡る2つの政治的事件というと、刀狩と大坂の役(方広寺鐘銘事件)である。
 刀狩について山川の「日本史B用語集」には「1588年、秀吉が諸国の農民から、方広寺の大仏造営を口実に武器を没収する刀狩令を発布。農民の一揆を未然に防止し、兵農分離・身分の固定を図った。」とある。
 また、大坂の役については「豊臣氏が滅んだ戦役。方広寺鐘銘問題で、1614年冬の陣が起こり、和議を結んだがすぐに破れ、翌1615年夏の陣で淀君と秀頼の母子が自殺して終る。」とある。(なお、本題には関係ないけど、ぼくは本編でも述べたとおり、淀君というのは彼女に対する徳川方の蔑称であって、淀殿と言うべきだと考えている。)

問3について。言うまでもないが、これが一番難しい。が、道順を示してくれているので、それに沿って展開したい。
まず、示されている3つの年代であるが、1510年三浦の乱。1592年秀吉の文禄の役開始。1609年己酉約条である。
これをkeyにして、15世紀から18世紀までの日朝関係を書くのである。大きな流れはテーマ史「日朝交渉史」をこのほか通史編『室町時代の外交』などの各時代の外交編を参考にしてもらいたい。
 ベースとなるのは、
 
(15世紀):義満の時代に国交樹立→活発に貿易→1419年応永の外寇で一時中断されるも、すぐに再開される(嘉吉条約。別名癸亥約条、1443)が、(16世紀):1510年三浦の乱を機に貿易次第に衰退→さらに1592年から始まる秀吉の朝鮮侵略で交流断絶→(17世紀):徳川家康が対馬の宗氏を介して国交回復→1609年、宗氏は己酉約条を結び、釜山に倭館を設置し、朝鮮との間の貿易の独占などの特権的な権利を認められる→以後、(18世紀を通して19世紀初頭まで)朝鮮は将軍の代替わりごとに修好を目的に通信使を派遣し、両国の交流が行われた。

 「
15世紀から18世紀までの」とあるので、1510年 1592年 1609年という指定された年代で明らかに分かるもの以外は、この世紀を意識して書きたい。

 実はここでぼく自身はかなり迷ったことがある。それは「15世紀から18世紀までの」という解釈である。15世紀は義満によって国交が樹立された時代だからO.K.である。問題は「18世紀までの」をどうとらえるか。1607年から始まった通信使は1811年まで行われており、19世紀初である。しかし、通信使が何年まで実施されたかは、教科書の本文中はおろか、用語集にも記されていない。それを受験生に判断させるとは考えにくく、これは「17世紀初頭から以後も」という意味に解釈した。

 これらを全てで400字以内にまとめる。

 なお、史料Bの雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は木下順庵門下の朱子学者で、朝鮮語・中国語に通じ、対馬藩に仕えて文教を司り、朝鮮との外交も担当した。私大入試で出ることもあるが、難問である。

<野澤の解答例>
1応永の外寇。対馬の宗氏の当主が交代し、倭寇の活動が活発化したため、朝鮮軍は倭寇の本拠地と考えていた対馬を襲撃した。(57字)
2方広寺。豊臣秀吉は方広寺の大仏造営を口実に、諸国の農民から武器を没収する刀狩令を発布した。また、徳川家康は、豊臣秀頼が奉納した鐘の銘文を口実に大坂の役を起こし、豊臣家を滅亡させた。(90字)
15世紀初頭、足利義満によって日朝間に国交が結ばれ、両国間では盛んに交易が行われたが、1510年、倭館の日本人が起こした三浦の乱以降、貿易は次第に衰退していった。さらに1592年に始まる豊臣秀吉の2度にわたる朝鮮侵略によって交流は断絶した。17世紀初め、徳川家康は対馬の宗氏を介して朝鮮との国交回復に成功し、1609年、宗氏は己酉約条を結び、釜山に倭館を設置し、朝鮮との間の貿易を独占するなどの特権的な権利を認められた。これ以後18世紀を通して、朝鮮から将軍の代替わりごとに通信使が派遣され、両国の交流が行われた。(251字)(総計398字)

参考:駿台予備校の模範解答
1応永の外寇。対馬の宗氏の当主が交代し、倭寇の活動が活発化したため、1419年に朝鮮軍が倭寇の本拠地と考えていた対馬を襲撃した。
2方広寺。1588年、豊臣秀吉は没収した武器などを大仏建立のための釘などに利用するとして刀狩令の口実とした。また徳川家康は、豊臣秀頼が奉納した鐘の銘文を口実に1614年に大坂の陣を興し、翌年豊臣家を滅ばした。
3足利義満の時代に日朝両国は国交を結び、15世紀には活発な貿易が展開されたが、1510年朝鮮に住む日本人と宗氏による三浦の乱で日朝貿易は衰退した。また、1592年からはじまった秀吉の朝鮮侵略で、甚大な被害を与えたことにより、両国の交流は断絶した。17世紀初頭、徳川家康は朝鮮との国交回復に成功し、さらに宗氏は1609年、朝鮮との間に己酉約条を結び、貿易の独占など特権的な地位を認められた。以後、17〜19世紀初頭にかけて朝鮮は将軍の代替わりことに通信使を派遣してくるようになり、日朝両国の政治・経済・文化交流が進められた。 (400字)


2006.11.12

追記  塚原哲也先生からご指導を受けました。
 ぼくは上に「通信使が何年まで実施されたかは、教科書の本文中はおろか、用語集にも記されていない。」と書いてしまいましたが、

三省堂『日本史B』のp.193(本文)に「日朝関係も,天明の飢饉をきっかけに延期されていた朝鮮通信使の来日は, 1811(文化8)年,対馬で国書をとりかわすことでようやく再開したが,両国の経済事情で中断された。」
と書かれています。


とのこと。慌てて確認。確かに!お詫びとともに訂正させていただきます。塚原先生も

もっともどれだけの受験生がこの事実を知っているのかと言えば,ほとんど知らないのが実情だとは思います。

と言っては下さいましたが、勉強不足は否めません。すみませんでした。

2006.11.18

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