2017年度 『大阪大学 その3』  
   
    バテレン追放令の理由とその効果  
     
 (V)  天正15(1587)年,豊臣秀吉はバテレン(宣教師)追放令を出した。秀吉がこの追放令を発した理由と,この追放令の効果について,具体的に述べなさい(200宇程度)。  
     
  <考え方>
 
求められていることは 
 
     
 ア

豊臣秀吉はバテレン(宣教師)追放令を出した理由を具体的に書く
バテレン追放令の効果を具体的に書く
200字程度で書く 
 
     
  ことである。

バテレン追放令については,通史編の『織豊政権編2 織豊政権』に 
 
     
  バテレン追放令は,九州平定の帰途,大村純忠が長崎を教会に寄進していたことなどに衝撃を受け,博多で発布されたが,あくまで宣教師の追放令であって,禁教令ではなく,大名の入信は許可制となったが,一般民衆の信仰は自由であり,貿易は奨励したので不徹底であった。

と書いた。
また,貿易を奨励したことが禁止令の不徹底につながる理由については,通史編の『織豊政権編1 南蛮貿易とキリスト教』に

ポルトガル船は布教を許可した大名領にのみ入港したので,貿易の利益を求め,キリスト教を保護し,自ら入信する大名(キリシタン大名)が出た。

と書いている。ベースはこれらを組み合わせたので良いと考える。
 
  それでは,実教の教科書『日本史B』から該当するところを抜き出してみる。   
 
 (1) 秀吉ははじめキリスト教を保護した。しかし,1587年,九州出兵の帰路,博多においてキリスト教の信仰を制限し,信仰は本人の心次第であるが,大名が信徒になるのは許可がいるとし,続いてバテレン追放令を発して統制を強めた。これらの法令でも貿易は認められていたので,その後も宣教師の潜入はたえず,布教も黙認された形で統制は徹底しなかった。(p.149)  
     
 (2) 追放令の理由として,キリシタンを邪法とし,神社・仏閣を破壊するとしているが,同時に発布した制限令では,一向宗を例に宗教的むすびつきの強さを警戒し,キリシタン大名らによる領内布教をあげ,また奴隷貿易などを理由にしている。なお,長崎には大村純忠の寄付した教会領があり,翌年,秀吉は没収して直轄領とした。(p.149)  
     
 (3) 戦国大名の中にも(略)南蛮貿易の利益を求めて,キリシタン教の保護をおこなう者も多かった。
ポルトガル国王は(略)布教と貿易は密接にむすびついていたから,布教を認めない大名の領内には商船を寄港させなかった。(p.142)
 
     
   以上のことから,  
  豊臣秀吉はバテレン(宣教師)追放令を出した理由を具体的に書く
キリシタンの宗教的むすびつきの強さや,長崎を教会領に寄進した大村純忠らキリシタン大名らによる領内布教に対する警戒や奴隷貿易が行われていたこと。
 
   バテレン追放令の効果を具体的に書く
大名が信徒になるのは許可が必要となったが,信仰は本人の心次第とされ,貿易は認められていた。キリスト教の布教と貿易は密接にむすびついていたため,その後も宣教師の潜入はたえず,布教も黙認された形で統制は徹底しなかった。
 
 
以上を200字程度でまとめれば良い。

<野澤の解答例>
豊臣秀吉は,キリシタンの宗教的結びつきの強さや,長崎を教会領に寄進した大村純忠などのキリシタン大名による領内布教を警戒し,奴隷貿易が行われていたなどから宣教師の追放令を出した。しかし,大名の入信は許可が必要となったものの,民衆の信仰は本人の心次第とされ,貿易は認められていた。キリスト教の布教と貿易は密接に結びついていたため,その後も宣教師の潜入はたえず,布教も黙認された形で統制は徹底しなかった。(199字)


2017.2.28
 
     
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