2017年度 『大阪大学 その2』  
   
    東大寺の焼失と復興  
     
(U)  奈良の東大寺の主要な伽藍は,治承4(1180)年12月に焼失し,鎌倉時代に復興された。東大寺はなぜ焼失し,どのように復興が進められたのか,また,復興に際して採用された建築様式はどのような文化的特徴を持つのか,具体的に述べなさい(200宇程度)。  
     
  <考え方>   
  求められていることは   
     
 (1)
(2)
(3)
(4)
1180年に東大寺が焼失した理由を書く
鎌倉時代に東大寺が復興された際の進め方を書く
採用された建築様式とその文化的特徴を書く
200字程度で書く
 
   
見た瞬間,多くの受験生は,   
   
(1)
(2)
(3)
 平家に焼き打ちされた
重源が勧進によって資金を集めた
東大寺南大門は大仏様。大陸的な雄大さが特徴で、宋から陳和卿がもたらした
 
     
  という言葉が頭の中を駆け巡ったと思う。これをまとめると
 
  平家に焼き打ちされて消失した東大寺は,重源が勧進によって資金を集めて再建された。その際,東大寺南大門は,宋から陳和卿がもたらした大仏様という大陸的な雄大さを特徴とする技法が用いられた。   
     
  となり,92字しかない。いくら阪大の解答用紙が罫線であっても,これは少なすぎる。   
     
  それでは、実教の教科書『日本史B』から該当するところを抜き出してみる。   
   
 
 (1) 源平の争乱で南都の諸寺が焼失したが,その再建は芸術の諸分野に新しい発展をうながした。重源は,寄付集めの責任者(大勧進)となって東大寺の再建にあたり,宋人陳和卿の協力を得て,大陸から新たに大仏様(天竺様)の技法をとりいれた。大陸的な豪放さに,その特徴がある。 
     
  これだけである。ほぼ丸写ししても100字余りしかない。あと100字をどこから引っ張ってくるか。ぼくは,源平争乱でなぜ南都寺院が焼かれることになったのかを説明することで補いたいと考えた。   
     
(2) (後白河)法皇の皇子以仁王は新しい天皇の正統性を認めず、源頼政とはかって挙兵し,平家を倒してみずから皇位を継承しようとした。以仁王の挙兵は失敗に終わったが,挙兵をよびかけた王の令旨を受けて,伊豆の源頼朝,木曽の源義仲らの源氏が平氏打倒の兵をおこすと,受領や荘園領主の支配に苦しんでいた各地の武士たちも次々に挙兵し,内乱は全国に広がった(治承・寿永の乱)。   
     
 (3) 清盛は都を摂津の福原に移して内乱をのり切り,瀬戸内海にひらかれた新しい政権をつくろうとしたが,貴族や南都・北嶺の寺社勢力の支持を得られず,孤立を深めて京都に戻った。   
     
  これらを200字程度でまとめて作成したい。   
     
  <野澤の解答例>   
  後白河法皇の皇子である以仁王の令旨を契機として,各地で平氏打倒の挙兵が起こり,治承・寿永の乱とよばれる源平争乱が始まった。そのなかで、平家を支持しなかった東大寺などの南都諸寺は,平家によって焼打ちされた。重源は,大勧進となって寄付を集めて東大寺の再建にあたった。南大門などの建築物には,宋人陳和卿の協力を得て,新たに大陸から大仏様の技法をとりいれた。大仏様は,大陸的な豪放さにその特徴がある。(203字)


2017.2.27 
 
     
     
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