2015年度 『大阪大学 その1』

9・10世紀の日中交流


(T) 古代において日本は中国とさまざまな関係をもった。9・10世紀における日中間の交流について。具体的に述べなさい(200字程度)。

<考え方>
 
求められていることは

(1) 9・10世紀の日中交流について書く
(2) 具体的根拠をあげて書く


である。

 遣唐使の廃止が894年(9世紀末)だから、その前後を書けばよいのだということは分かる。
 
 それでは、実教の教科書『日本史B』から該当するところを抜き出してみる。

(1) 9世紀のはじめごろ、最澄・空海が唐から帰国して、仏教界に新風を吹き込んだ。
(2) 唐は9世紀にはいると衰退がすすみ、907年にはついに滅亡した。そののち五代の諸国をへて960年、宋(北宋)が成立した。
(3)  奈良時代以来日本と親交のあった潮海も、926年に遼(契丹)に滅ぼされた。
(4) 東アジア諸国で大きな変動が続くなか、危険をおかし、多くの費用をかけて遣唐使を派遣する意味がうすれ、894年、菅原道真の建議によって遣唐使の派遣は停止された。
(5) これ以後、朝廷は外交に消極的な態度をとり、どこの国とも外交関係をもたず、日本の商船の渡航はゆるさなかった。
(6) しかし、こうした朝廷の政策によって、日本と東アジアとの交流がとだえたわけではなかった。
(9) 9世紀以来、唐・新羅の私商船がしばしば大宰府にきて貿易をおこなっていたが、10世紀後半以降は、宋の私商船がしきりに来航して貿易品をもたらし、貴族たちはそれらを唐物として珍重した。また日本から宋にわたる僧侶もいた。

 日中交流だから、渤海のこともありはするが、9〜10世紀の流れを200字で書くには、唐・宋に限定したのでよいとぼくは考える。

  
<野澤の解答例>
9世紀初頭は最澄・空海が唐から帰国して新しい仏教をもたらすなど、盛んな交流があった。9世紀になると唐の衰退が進む一方、私商船が大宰府にきて貿易を行うようになり、遣使の意味が薄れていった。9世紀末に菅原道真の建議によって遣唐使派遣は停止され、10世紀初頭に唐が滅亡した後は、新たに建国された宋との間にも外交関係は開かれなかった。しかし宋の私商船は盛んに来航して貿易品をもたらし、日本から宋に渡る僧侶もいるなど交流は続いた。(209字)
 

2015.3.8

 
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