2014年度 『大阪大学 その2』
守護の職権の変遷
(U) 鎌倉幕府が国単位に設置した守護は、時代とともに権限を拡大し、室町時代には守護大名が登場するにいたった。鎌倉時代から室町時代にいたる守護の職権の変遷について、具体的に述べなさい(200字程度)。
<考え方>
求められていることは
(1) 守護の職掌の変遷を書く
(2) 鎌倉時代から室町時代までの変遷を具体的に書く
である。
これも第1問と同様、頻出の内容であり、受験生は基本通りの答案をしっかり書きたい。
流れとしては、「鎌倉時代は大犯三カ条(大番催促、謀叛人・殺害人の検断)のみ→室町時代には使節遵行と刈田狼藉の検断権が加わる→観応の擾乱に際して半済が認められ、のちには全国に永続的となる」
である。
それでは、実教の教科書『日本史B』のP.109とP.134、135から該当するところを抜き出す。
(1) 守護は国地頭の権限を縮小されて、もっぱらその国の御家人たちを指揮し、国内の治安維持にあたることになり、頼朝が没することには大番催促と謀反人・殺害人の逮捕の三つが大犯三カ条とよばれて、守護の最も重要な仕事になっていった。
(2) (南北朝の動乱・観応の擾乱の時期)うち続く動乱のなかで、国内の荘園・国衙領に対する守護の権限が著しく強化された。従来の大犯三カ条に加えて、この時代の守護は他人の田畠の稲などを一方的に刈りとってしまう刈田狼藉の取り締まりや、使節遵行といって幕府の裁決を守護代を通して現地の荘園・国衙領に伝え、これを強制執行する権限を一手ににぎるようになった。
(3) 戦乱が長びき、国人の荘園侵略が激化すると、幕府は1352年、近江・美濃・尾張3国に半済令を発布し、荘園領主に年貢の半額を保証するとともに、残りの半分を兵粮として、守護が国人にあたえてもよいことにし、地方秩序を回復させようとした。この方式ははじめ1年かぎりであったが、以後多くの国でくりかえし実施され、なかには永続的なものや、のちには年貢ばかりでなく土地そのものの分割に及ぶものもあった。
ぼくの通史編では、「半済令は観応の擾乱に際して出された」と書いているが、教科書にはその記述はないので、「実教の教科書の記述をまとめて書く」というこのコーナーの原則に従って、以上を200字程度でまとめる。
<野澤の解答例>
鎌倉時代、守護は国内の御家人たちの指揮と治安維持にあたり、権限は大番催促と謀反人・殺害人の逮捕という大犯三カ条に限られていた。室町時代には、動乱のなかで権限が強化され、刈田狼藉の取り締まりや、幕府の裁決を強制執行する使節遵行の権限を得た。さらに荘園から年貢の半分を兵粮として徴発する半済が認められた。半済は当初、地域が限定され1年限りであったが、多くの国でくり返し実施され、後には土地そのものの分割に及ぶものもあった。(209字)
ぼくとしては、「多くの国でくり返し実施され」は「全国で永続的に」としたいのだが、ここも教科書の記述をまとめるという原則に従った。
また、使節遵行は意味を説明しているが、刈田狼藉は用語のみ使用したことについては、字数を考慮した。刈田狼藉の説明を入れると「国内の御家人たちの指揮と治安維持にあたり」を削ることになる(もっとも阪大の解答用紙は罫線なので、単純に加えても大丈夫だとは思うが)。
ここは、「用語は使うものであって、説明するものではない」という、かつて駿台の研究会で教わった考え方に、迷った時は従うことにした。
2014.9.21
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