2013年度 『大阪大学 その4』
田中義一内閣の政策
(Ⅳ)田中義一内閣(1927~1929年)について、外交政策を中心に、経済政策や治安対策にもふれながら、具体的に述べなさい(200字程度)。
<考え方>
問われていることは
(1) 田中義一内閣の政策について書く
(2) 外交政策を中心にして書く
(3) 経済政策や治安対策にふれながら書く
(4) 具体的に書く
である。
今年度はこの問題だけが、教科書の1ページ分を要約するのではなく、時代を横断的にとらえる必要のある出題であった。
実教の『日本史B』のP.329には次のように記されている。
田中内閣はどちらかといえば積極財政政策をとり、積極外交を展開して、無産政党運動や社会主義運動に対して三・一五事件をひきおこすなど抑圧的姿勢でのぞんだ。
ここから、書くことの軸は判断できる。それでは、田中内閣の外交政策、経済政策、治安対策に関する部分を抜き出してみる。
<外交政策 P.325~326>
(1) 東方会議において満蒙権益の擁護が決定され、(蒋介石ひきいる国民党軍の)北伐を阻止するため3次にわたる山東出兵がおこなわれた。とりわけ第2次出兵のさいには、済南で国民党軍との衝突(済南事件)をひきおこした。
(2)ただし、対中国積極外交をすすめるいっぽう、日本が市場を多く依存している英米に対しては協調の維持をはかった。1927年には、ワシントン会議で除外された補助艦の制限に関するジュネーヴ海軍軍縮会議に参加し、翌28年にはパリで開かれた不戦条約会議に参加して、戦争放棄に関する条約(パリ不戦条約)に調印した。
※ここで気をつけなければならないことがある。問われているのは、田中内閣の外交政策である。上記の(1)と(2)の間に田中義一内閣が退陣を余儀なくされる原因となった張作霖爆殺事件に関する記述がある。しかし、これは田中内閣の政策ではない。
<経済政策 P.327>
(3)(金融恐慌に対し)モラトリアムを発令し、日銀非常貸出をおこなうことで事態を収拾した。
<治安対策 P.329>
(4)無産政党運動や社会主義運動に対して三・一五事件をひきおこすなど抑圧的姿勢でのぞんだ。緊急勅令によって治安維持法の最高刑として死刑を導入し、社会運動取り締まりにあたる特別高等警察も全国に配置し、1929年には共産主義者のいっせい検挙をおこなった(四・一六事件)。
(5)1928年、田中内閣のもとでおこなわれた最初の普通選挙では、3党(無産政党3党)あわせて8人の代議士を誕生させることに成功した。しかし、この選挙で予期した成績をあげることのできなかった田中内閣は、無産政党の進出に危機感をいだき、選挙直後の1928年3月15日、公然と活動をはじめた共産党の一斉検挙に乗り出した。
これを200字程度でまとめる。
<野澤の解答例>
田中義一内閣は、モラトリアムと日銀からの非常貸出で金融恐慌を収拾した後、積極財政的な政策をとった。外交面では東方会議で満蒙権益の擁護を決定して対中国積極外交を進め、蒋介石の北伐阻止のため山東出兵を行う一方、英米に対しては協調の維持を図り、パリ不戦条約に調印した。また第1回普通選挙で無産政党が進出すると、三・一五事件等で共産主義者を弾圧するとともに、治安維持法を改正し、特別高等警察を全国に配置した。(200字)
2013.3.18