2012年度 『大阪大学 その1』

古代の文字使用の歴史


(T)日本ではどのようにして文字を取り入れ、使いこなしてきたのか。5世紀から10世紀にいたる文字使用の歴史について述べなさい。(200字程度)

<考え方>
 阪大解説のTOPページにも書いたが、今年の阪大の問題は、「縦横縦横」という構成がはっきりとしている。(T)は」すなわちテーマにそって流れを問うものである。

問われていることは

(1)文字使用の歴史を書く
(2)5世紀から10世紀について書く

(3)どのように取り入れ、使いこなしてきたのかを書く

である。

 5世紀というと古墳時代(ヤマト政権)、10世紀は平安中期の国風文化の時代になる。
 ぼくが試験会場にいたらどう考えていくだろうか。まず、ヤマト政権から国風文化までで「文字の使用」に関して思いつくことを、問題用紙の隅に書き出していくだろう。やってみた。

 ヤマト政権:漢字の伝来、金石文、隅田八幡神社人物画像鏡は最古の万葉仮名(漢字の音を利用)、江田船山古墳出土鉄刀銘、稲荷山古墳出土鉄剣銘→ヤマトタケル、ヤマト政権→史部→政治・外交文書の作成、記録、史書→帝紀・旧辞
 白鳳、奈良:律令→官吏に漢文が必要→大学・国学、木簡→漢字の地方普及、万葉集は万葉仮名で漢字の音訓で表記、六国史は漢文
 平安初期:漢詩文隆盛、勅撰漢詩集←貴族の教養
 平安中期:かな文字の成立→表現しやすい→女性によるかな文学の発達、古今和歌集(勅撰)、but和歌以外では男は漢字、公文書は漢字、but和製漢文

※実際には、隅田八幡神社人物画像鏡は「隅田八人物鏡」、稲荷山古墳出土鉄剣銘は「稲荷山鉄剣」という風にメモしています。

 なんか、書けた気がする。
 
 しかし、このコーナーはあくまで「実教の教科書を用いて書く」ことを基本としているので、実教の『日本史B』から抜き出してみたい。

 といって、抜き出しを始めたのだが、いきなり困ったことになった。
 実教の教科書には、稲荷山古墳出土鉄剣銘は載ってはいるのだが、図の注として「ヤマタケル=雄略天皇」の説明のみである。大陸文化の摂取の項目でも、金石文についてはふれられていない。「文字の知識も渡来人によってもたらされた。大和政権は(略)、文筆に長じた者を史部として用いて、政治・外交に必要な記録・文書の作成や、財政上の事務を担当させた。」(P.52)記されているだけである。

 一方、この件について山川の『詳説 日本史』は、ヤマト政権での大陸文化の受容として、
漢字の使用もはじまり、稲荷山鉄剣の銘文からも明らかなように漢字の音を借りて日本人の名や地名などを書きあらわすことができるようになった。漢字を用いてヤマト政権のさまざまな記録や出納・外交文書などの作成にあたったのも、史部とよばれる渡来人たちであった。」(P.23〜24)としっかりと書かれている。

 これ以降も、山川の『詳説 日本史』は、
白鳳文化で「豪族たちは中国的教養を受容して漢詩文をつくるようになり、一方で和歌もこの時代に形式を整えた。この時代には、中央集権国家組織の形成に応じて、中央の官吏だけでなく地方豪族にも漢字文化と儒教思想の受容が進んだ。」(P.35)

天平文化で「(『古事記』は)口頭の日本語を漢字の音・訓を用いて表記している。720年にできた『日本書紀』は、舎人親王が中心となって編纂したもので、中国の歴史書の体裁にならって漢文の編年体で書かれている。」
(P.46〜47)

弘仁・貞観文化で「貴族の教養として漢詩文をつくることが重視され、漢文学がさかんとなり、漢字文化に習熟して漢文をみずからのものとして使いこなすようになった。このことはのちの国風文化の前提となった。」(P.55)

国風文化で「平がなや片かなの字形は、11世紀の初めにはほぼ一定して、広く使用されるようになり、その結果、日本人特有の感情や感覚を生き生きを伝えることが可能になって、国文学がおおいに発達した。(略)貴族は公式の場では従来通り漢字だけで文章をしるしたが、その文章は純粋な漢文とはかなりへだたった和風のものになった。一方、かなは和歌をのぞいて公式には用いられなかったが、日常生活では広く用いられるようになり、それに応じてすぐれたかな文学の作品がつぎつぎに著された。」(P.64〜65)

 求められていることは、「文字をどのように取り入れ、使いこなしてきたか」である。まさに、上記の『詳説 日本史』の記述をつなげて、200字程度まで縮めれば、そのまま答案はできる。
 逆に実教の教科書の抜き書きをつないだのでは、書けなかった。
 反則で申し訳ないが、今回は山川の教科書の記述を、200字程度でまとめることにした。


<野澤の解答例>
渡来人によって漢字が伝えられ、漢字の音を借りて人名などを表記できるようになると、ヤマト政権は彼らを史部として文書を作成させた。律令国家の形成期には、中央の官吏だけでなく地方豪族にも漢字文化の受容が進む一方で、漢字の音・訓を利用する万葉仮名も用いられた。国風文化の時代にかな文字が成立すると、かな文学が発達した。貴族は公式には和歌以外は漢字で文章を記したが、文体は和風のものとなり、かな文字は日常生活で広く用いられた。(208字)


 
正直言って「えー、阪大なのに実教の教科書じゃないの〜!?」という気分である。

2012.2.26

<別解>
渡来人によって漢字が伝えられ、漢字の音を借りて人名などを表記できるようになると、ヤマト政権は彼らを史部として文書を作成させた。律令国家の形成期には、中央の官吏だけでなく地方豪族にも漢字文化の受容が進む一方で、漢字の音・訓を利用する万葉仮名も用いられた。平安時代初期には、貴族の教養として漢詩文が重んじられ、漢文を使いこなすようになった。国風文化の時代にかな文字が成立すると、日常生活で広く用いられ、かな文学が発達した。(209字)

こっちのほうがいいね。貴族は公式には和歌以外は漢字で文章を記した」は枝葉であって、大きな流れは別解のほうですね。訂正します。


2012.3.29追記


 
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