2011年度 『大阪大学 その1』

孝徳朝から桓武朝の東北経営


【T】日本の古代国家は、東北地方の蝦夷や九州南部の隼人を服従させ、支配地を拡大していった。7世紀中葉(孝徳天皇の時代)から9世紀初頭(桓武天皇の時代)にいたる蝦夷政策について、時代を追って述べなさい。(200字程度)

<考え方>
 問われていることが何であるかは、はっきりしている。

(1)孝徳天皇から桓武天皇の時代までの蝦夷政策を
(2)時代順に述べる。


である。
ぼくはHPの通史編で

 東北経営は、大化の改新後の渟足・磐舟の柵(孝徳天皇)、阿倍比羅夫の水軍が秋田方面へ遠征(斉明天皇)(飛鳥時代〜奈良時代編2『律令国家の成立と白鳳文化』参照)からの流れである。712年出羽国設置、724多賀城築城=鎮守府設置であるが、ポイントは東北経営は日本海側を発展し、多賀城724ではじめて太平洋側へ出たである。
 できればこの機会に、桓武天皇の802年にはさらに北に胆沢城が築かれ、そこへ鎮守府が移されるところまでおさえておくと楽である。
 渟足柵・磐舟柵→阿倍比羅夫の遠征→出羽国→多賀城→胆沢城とN字型に進行しているイメージで持つこと。(稲作の北上と同じイメージでよい。)『飛鳥時代〜奈良時代編4 奈良時代の政治/平城京と国土の開発』

  東北経営のために設けられた鎮守府は、胆沢城設置とともに多賀城から移される。基本は「多賀城は奈良時代、胆沢城は平安時代」である。胆沢城に鎮守府を移した征夷大将軍坂上田村麻呂は中学の教科書レベル。
 なお、桓武天皇の前の光仁天皇のときに伊治呰麻呂の乱が起こり、一時多賀城が落とされたことも問われることがある。この後も東北では蝦夷の激しい抵抗が続き、桓武天皇は東北経営に力を入れることとなった。(『平安時代編1 平安初期の政治』

と書いているが、これでいいような気がする。そのまままとめると、

孝徳天皇の時代に北陸に渟足柵・磐舟柵が築かれ、斉明天皇の時には阿倍比羅夫が水軍を率いて秋田方面へ遠征した。奈良時代になると日本海側に出羽国が設置され、さらに太平洋側に多賀城を築き、鎮守府を設置して東北経営の拠点とした。しかし光仁天皇の時代以降、蝦夷による激しい抵抗が続くようになった。桓武天皇の時代には征夷大将軍坂上田村麻呂が派遣され、多賀城のさらに北方に胆沢城を築き、鎮守府を移した。(195字)

 もちろん伊治呰麻呂に触れられる力があれば、

孝徳天皇の時代に北陸に渟足柵・磐舟柵が築かれ、斉明天皇の時には阿倍比羅夫が水軍を率いて秋田方面へ遠征した。奈良時代になると日本海側に出羽国が設置され、さらに太平洋側に多賀城を築き、鎮守府を設置して東北経営の拠点とした。しかし光仁天皇の時代に伊治呰麻呂に一時多賀城を落とされるなど、蝦夷の激しい抵抗が続いた。桓武天皇の時代には征夷大将軍坂上田村麻呂が派遣され、多賀城のさらに北方に胆沢城を築き、鎮守府を移した。(204字)

 となる。設問は
時代順に述べるとなっているので、具体的な年代は必要ないとぼくは考えるが、字数稼ぎのために、多賀城設置=724年、胆沢城=802年をいれても構わない。

 しかし、このコーナーはあくまで「実教の教科書を用いて書く」ことを基本としているので、実教の『日本史B』から抜き出してみたい。

(1) 孝徳朝にすでに越後に渟足柵・磐舟柵をおいて、蝦夷支配の根拠地としていたが、斉明朝には阿倍比羅夫が水軍をひきい、海岸づたいに秋田・津軽の方面まで進出した。(P.59)
(2) (奈良時代の政府は)辺境地域の開拓もすすめ、日本海方面では712年に出羽国をおき、太平洋方面では多賀城をきずいて鎮守府をおき、東北経営の拠点とした。(P.67)
(3) (光仁天皇は)地方政治の粛正をはかった。しかし、780年に伊治呰麻呂の反乱がおきるなど、東北地方では蝦夷の抵抗がはげしくなり、政治の不安は去らなかった。
(4) (桓武天皇の時代には)8世紀後半以降の蝦夷の抵抗に対して、3回にわたり大軍が派遣された。坂上田村麻呂を征夷大将軍とする第3次軍は、蝦夷の拠点胆沢盆地にすすんで、蝦夷の首長阿
流為を屈服させ、胆沢城をきずいて鎮守府を多賀城からここに移した。(P.77)

これを200字程度でまとめる。

<野澤の解答例>
 孝徳天皇の時、越後に渟足柵・磐舟柵をおいて蝦夷支配の根拠地とし、斉明朝では阿倍比羅夫が水軍を率いて、秋田・津軽の方面まで進出した。奈良時代になると日本海方面では出羽国をおき、太平洋方面では多賀城を築いて鎮守府をおき、東北経営の拠点とした。しかし光仁天皇の時代には蝦夷の抵抗が激しくなった。これに対し桓武天皇は大軍を派遣し、征夷大将軍坂上田村麻呂は、蝦夷の首長を屈服させ、胆沢城を築いて鎮守府をここに移した。(203字)

2011.2.26


 
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