2010年度 『大阪大学 その4』
【W】明治政府は近代的学校教育の普及に力を注いだ。近代化に大きな役割を果たした明治期における小学校教育の展開について述べなさい。(200字程度)
<考え方>
通史『近代編前期10 明治文化』でも、明治の教育史はスーパー大物と書いたが、そのままずばりである。
実教の教科書P.266とP.301から抜きだすと、次のとおりである。
(1)1872年、文部省は国民皆学を理念とし、教育を国民の義務とする学制を公布した。学制は学問が個人の立身・発達のためにあるという啓蒙主義的な教育観を述べていた。
(2)学制により近代的学校教育がはじまったが、教育費の負担は重く、画一的であったため、その普及は容易ではなかった。
(3)1879年、学制にかわり地方の自主性を大きく認めた教育令が公布されたが、翌年改正されふたたび中央の権限が強化された。
(4)1886年の学校令により、小学校は尋常科と高等科にわけられ、義務教育が尋常小学校4年とされようやく安定した。
(5)1903年には小学校の教科書が国定教科書となり、日露戦争後の1907年には義務教育が6年に延長された。
(6)この間に小学校の就学率も次第に高まり、1911年には約98%に達した。
(7)教育思想は学制の啓蒙主義的なものから国家主義的なものにかわっていき、1890年には、忠君愛国思想を説く教育勅語がだされた。教育勅語は国民教育の大原則となった。
これを200字程度でまとめたい。
ところがである。この内容をすべて入れようとすると、どんなに要約しても250字程度になる。どれかを思い切ってバッサリ切らなければならない。
ここで問われているのは、「近代化に大きな役割を果たした明治期における小学校教育の展開」である。ということは、役に立たなかったものは記さなくてよいことになる。
そうなると、翌年即改正された教育令はバッサリやってよいと判断できる。「学制→教育令→学校令」は、明治の教育史の三本柱なので勇気が必要だが、ぼくは「教育令バッサリ」で解答例を作成した。
<野澤の解答例>
一八七二年、国民皆学を理念とし、教育を国民の義務とする学制が公布されたが、その普及は容易ではなかった。一八八六年の学校令により、義務教育は尋常小学校4年とされ、ようやく安定した。一九〇三年には国定教科書となり、日露戦争後には義務教育が6年に延長され、就学率も約九八%に達した。教育思想は学制の啓蒙主義的なものから国家主義的なものにかわっていき、一八九〇年には、忠君愛国を説く教育勅語がだされ、国民教育の大原則となった。(209字)
2010.3.6
参考:駿台予備校の模範解答
政府は一八七〇年代、学制を公布し、立身出世の教育観にもとづき国民皆学を掲げて以降、小学校教育に力を入れたが、当初は容易には普及しなかった。一八八〇年代後半、立憲体制の整備が進むなか、学校令を公布し小学校尋常科を義務教育とし、一八九〇年に教育勅語で示された忠君愛国思想は、小学校教育でも大原則とされた。一九〇〇年代、国定教科書制度が導入されて国家統制が進む一方、義務教育が無償化されたため、その就学率は九割を超え、さらに六年に延長された。(218字)
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