2007年度 『大阪大学 その1』


【T】日本の神およびその信仰と、仏教とは、古代・中世においてどのような関係にあったか、その特徴について述べなさい。(200字程度)

<考え方>
 問われているのは、古代、中世での日本の神(神道)と仏教との関係である。単に仏教史や神道史を述べたのでは、的を外したことになる。(仏教史についてはこちらを参照)

 「仏教と日本の神との関係」と言われてすぐに思いつくのは、仏教伝来の時の崇仏論争と神仏習合の流れである。山川出版社の「詳説 日本史」には、

仏教の受容に積極的な蘇我馬子と反対する物部守屋のあいだの戦いとなり、587年に守屋を滅ぼして蘇我氏の権勢が確立した。蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権をにぎり、政治機構の整備や仏教の受容を積極的に進めた。(P29)

とあるだけで、
欽明朝での蘇我稲目物部尾興・中臣鎌子との間の崇仏論争についての具体的な記載はないが、ほとんどの受験生は史料等で知っていると思う。
 

 
因みに崇仏論争時の蘇我稲目と物部尾興の台詞は次のとおりである。

蘇我大臣稲目宿禰(すくね)奏して曰(もう)さく、「西蕃の諸国、一(もはら)に皆礼(いやま)ふ。豊秋(とよあきつ)日本(やまと)豈に独り背(そむ)かむや」と。物部大連尾輿中臣鎌子、同じく奏して曰さく、「我が国家(みかど)の、天下(あめのした)に王(きみ)とましますは、恒(つね)に天地(あまつやしろ)社稷(くにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を以(もっ)て、春夏秋冬、祭拝(いわいおが)むを事とす。方に今改めて蕃(あだしくにの)神を拝みたまはば、恐らくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむ」と。(日本書紀)

 物部尾興は「(大王が)この国で王でいられるのは、常に天地・国々の神々を拝んできたからです。それなのに今、外国の神などを拝めば、日本の神々が怒りますよ。」と言っているのであり、神道の原型はあったことが分かる。何より、中臣氏の職掌は祭祀である。

 もっとも仏教伝来以前に神道の原型があったことは、教科書の次の記述からも明らかである。教科書についてはこちら

弥生時代と同様に農耕に関する祭祀は、古墳時代の人々にとってももっとも大切なものであり、なかでも豊作を祈る春の祈年の祭りや収穫を感謝する秋の新嘗の祭りは重要なものであった。また人々は、円錐形の整った形の山や高い樹木、巨大な岩、絶海の孤島、川の淵などを神のやどるところと考え、祭祀の対象とした。それらの中には、現在の神社につながるものも少なくない。(大神神社、宗像大社の沖津宮、伊勢神宮、出雲大社、住吉大社)」(山川「詳説 日本史」P26〜27。)

 つまり、
1.6世紀に仏教が朝鮮半島から伝えられた当初は、崇仏論争が起こったが、推古朝以降は積極的に受容されていった。

となる。これは聖徳太子の仏教への取組を見ても分かる。

 これ以降、古代・中世の神仏関係を教科書から抜き出すと、次のようになる。

2.奈良時代=「仏教が日本の社会に根づ過程で、現世利益を求める手段とされたり、在来の祖先信仰と結びついて、祖先の霊をとむらうための仏像の造立や経典の書写などがおこなわれた。また、仏と神は本来同一であるとする神仏習合思想もおこった。」(P49)

3.平安初期=「8世紀ごろから、神社の境内に神宮寺を建てたり、寺院の境内に守護神を鎮守として祭り、神前で読経する神仏習合の風潮が見られたが(ここまで奈良時代)、平安時代に入るとこの傾向はさらに広まった。天台宗・真言宗では、奈良時代の仏教とは違って山岳の地に伽藍を営み、山中を修行の場としたから、在来の山岳信仰と結びついて修験道の源流となった。」(P56)

4.平安中期=「神仏習合も進み、仏と日本固有の神々とを結びつける本地垂迹説も生まれた。また怨霊や疫神を祀ることで飢饉などの災厄から逃れようとする御霊信仰が広まり、御霊会がさかんにもようされた。(本地垂迹説は)神は仏が仮に形を変えてこの世にあらわれたもの(権現)とする思想で、のちには天照大神を大日如来の化身と考えるなど、それぞれの神について特定の仏をその本地として定めることがさかんになった。」(P66)

5.鎌倉時代=「鎌倉仏教の影響を受けた独自の神道理論が、伊勢外宮の神官度会家行によって形成され、伊勢神道とよばれた。度会家行は『類聚神祗本源』を著し、従来の本地垂迹説と反対の立場に立ち、神を主として仏を従とする神本仏迹説をとなえた。」(P107)

6.室町時代=「神道思想による『日本書紀』などの研究も進み、吉田兼倶は反本地垂迹説にもとづき、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道を完成した。」(P137)

これらを200字程度にまとめればよい。

<野澤の解答例> 
6世紀に朝鮮半島から仏教が伝えられた当初は、崇仏論争が起こったが、推古朝以降は積極的に受容されていった。奈良時代には仏と神は本来同一であるとする神仏習合思想がおこり、神宮寺が建立されたりした。平安中期になると神は仏が仮に形を変えたものとする本地垂迹説が広まった。鎌倉時代には鎌倉仏教の影響を受けた伊勢神道が生まれて神本仏迹説が唱えられ、室町時代には神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道が完成した。(205字)

2007.8.19

参考:駿台予備校の模範解答
仏教は、6世紀に朝鮮より伝わり、当初崇仏・排仏論争もおこったが、推古朝以降には定着し、古来からの神への信仰と共存し始めた。律令制形成にともなって、政府が仏教に鎮護国家の役割を期待する中で神仏習合が進み、さらに平安中期には神は仏が仮に姿を変えたものとする本地垂迹説が広がった。ところが元寇などを契機とする神国思想の高まりを背景に、神本仏迹説が強まり、鎌倉後期には伊勢神道が成立し、室町期には唯一神道が成立した。(204字)

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