2006年度 『大阪大学 その1』 
                                                 

【1】 奈良時代は中央政界において激しい権力闘争が行われた時代でもある。749年(天平勝宝元年)に聖武天皇が譲位してから奈良時代末までの、権力者の変遷と政策基調の変化について述べなさい。(200字程度)

<考え方>
 書くべきポイントを整理する。
@749年(天平勝宝元年)に聖武天皇が譲位してから奈良時代末までのことを書く。
A権力者の変遷と政策基調の変化について書く。
B200字程度で書く。(
200字を越えても構わない!

→奈良時代の政争は、『飛鳥時代〜奈良時代編4 奈良時代の政治/平城京と国土の開発』のとおりである。
 聖武天皇王が譲位した後のことなので、孝謙天皇からである。そうすると政権担当者は藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡→藤原百川となる。ここまでは容易に判断できるであろう。問題はこの3人の「政策基調の変遷」という問いかけ方である。つまり出題者側は「この3人は政策基調がそれぞれ違いますよ。」と暗に示している。しかも聖武天皇は鎮護国家思想に基づく仏教政治であったから、「聖武天皇が譲位してから」という設問は、政策基調の重複を避けるためと考えられ、だめ押しである。これが判断できるか。
 さらにここで
聞かれているのは、具体的に行った政策ではない。仲麻呂が問民苦使を設けたとか開基勝宝をつくったとかの難関私大用の知識は不要である。

 さて道鏡が仏教政治なのは判断できる。さらに図のように表すと、「藤原仲麻呂=(ア)」→「道鏡=(仏教政治)」→「藤原百川=(イ)」となる。この(ア)と(イ)を入れなければならない。
 藤原仲麻呂が異様に中国かぶれであることは、通史編で述べた。「官職名を唐風に改めるなど、中国を意識した政治を推進した」でも現役生としては十分であろう.。実際、山川の教科書にはそのことも述べられていない。(用語集には記されているが)文英堂の参考書などには「儒教色の濃い政治を行った」と記されているが、山川、三省堂、桐原、実教のいずれの教科書にも「儒教政治」という言葉は出てこない。にもかかわらず「儒教政治」という用語を要求するのであれば、阪大は教科書の内容を逸脱した要求をしていることになり考えにくい。(もちろんあればbetterではあるが)
 一方、藤原百川であるが、これは山川の教科書にも光仁朝は「律令政治の再建」と書かれている。しかし、仮にそれを知らなくても、光仁天皇の子が桓武天皇であることを考えれば、律令政治の立て直しだと気付いて欲しい。
 
 つまり、
藤原仲麻呂(中国風の政治)→道鏡(仏教政治)→藤原百川(律令政治の再建)を軸に、権力者の推移を書けばよい。これはセンターレベルの基本。
ア.藤原仲麻呂=光明皇太后の信任。橘奈良麻呂の変←→養老律令施行で藤原氏の権威付け
イ.道鏡=孝謙上皇の信任。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。称徳天皇(孝謙天皇重祚)のもと権勢を振るうが宇佐八幡宮神託事件で皇位継承に失敗
ウ.藤原百川=称徳天皇の死後、道鏡を排斥。光仁天皇を擁立。


これらを200字程度でまとめればよい。

<野澤の解答例>
光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂は、養老律令を施行する一方で橘奈良麻呂の変で反対派を倒し、官職名を中国風に改めるなど専制的な政治を行った。しかし光明皇太后の死後、孝謙上皇の信任を得た道鏡が台頭すると、対立して敗死した。孝謙上皇が重祚して称徳天皇となると、道鏡は権勢を握って仏教政治を推進し、皇位継承を図ったが失敗した。称徳天皇の死後、藤原百川らは道鏡を追放して光仁天皇を擁立し、律令政治の再建に努めた。(201字)

参考:駿台予備校の模範解答
 光明皇太后の信任を得て藤原仲麻呂が台頭し、養老律令を施行するとともに橘奈良麻呂の変のより反対派を一掃し、儒教政治を行った。しかし光明皇太后の死後孝謙上皇の信任を得た道鏡の台頭に反抗して敗死した。孝謙上皇が重祚して称徳天皇となると、道鏡は仏教政治を行い、宇佐八幡宮神託事件で皇位継承を画策したが失敗した。称徳天皇の死後、藤原百川らは道鏡を左遷して光仁天皇を擁立し、仏教政治の弊害を排して律令政治の再建を図った。(207字)


2006.9.10

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