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2023年9月23日実施第7期第3講 |
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馬揃えは朝廷からの依頼であった。大評判となり朝廷は再度リクエストをした。 |
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譲位には、莫大な費用が必要であり、従来は幕府が負担していた。しかし応仁の乱後は、朝廷は譲位の経費を確保できなくなった。つまり貧乏で譲位が出来なかったのである。信長の「経費を出す」という申し出によって、朝廷は約120年ぶりに譲位を行うことができるようになった。 |
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譲位が行われなかったのは、朝廷側の都合(忌みを避ける)であった。 |
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近衛中将であった信忠と信長との官位の差が大きすぎて、信長の代わりに信忠を左大臣にすることなど、できるはずがなかった。 |
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上総は、親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は次官である「上総介」であった。桓武平氏の祖である平高望や、『更級日記』の筆者の父菅原孝標が例である。信長は、それを知らず、次官である「介」ではなく長官である「守」を名のって大恥をかいた。信長は右大臣になっても、官位に詳しくなかったのではないかと考えられる。 |
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信長に関する教科書の記述は、この10年で大きく変わった。 |
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