| |
2023年9月23日実施第7期第3講 |
| 1 |
 |
| 2 |
 |
| 3 |
 |
| 4 |
 |
| 5 |
 |
| 6 |
 |
| 7 |
 |
| 8 |
 |
| 9 |
 |
| 10 |
 |
11
|
 |
| 12 |
 |
13
|
 |
| 14 |
 |
| 15 |
 |
| 16 |

馬揃えは朝廷からの依頼であった。大評判となり朝廷は再度リクエストをした。 |
| 17 |
 |
| 18 |
 |
| 19 |
 |
| 20 |
 |
| 21 |
 |
| 22 |

譲位には、莫大な費用が必要であり、従来は幕府が負担していた。しかし応仁の乱後は、朝廷は譲位の経費を確保できなくなった。つまり貧乏で譲位が出来なかったのである。信長の「経費を出す」という申し出によって、朝廷は約120年ぶりに譲位を行うことができるようになった。 |
| 23 |
 |
| 24 |

譲位が行われなかったのは、朝廷側の都合(忌みを避ける)であった。 |
| 25 |
 |
| 26 |
 |
| 27 |
 |
| 28 |
 |
| 29 |

近衛中将であった信忠と信長との官位の差が大きすぎて、信長の代わりに信忠を左大臣にすることなど、できるはずがなかった。 |
| 30 |

上総は、親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は次官である「上総介」であった。桓武平氏の祖である平高望や、『更級日記』の筆者の父菅原孝標が例である。信長は、それを知らず、次官である「介」ではなく長官である「守」を名のって大恥をかいた。信長は右大臣になっても、官位に詳しくなかったのではないかと考えられる。 |
| 31 |
 |
32
|
 |
| 33 |
 |
| 34 |
 |
| 35 |
 |
| 36 |
 |
| 37 |

信長に関する教科書の記述は、この10年で大きく変わった。 |
| 38 |
 |
| |
|
| |
|
| |
|
| |
|