律令国家の土地政策の推移について、次の(ア)~(エ)の語句を用いて論述せよ。
(ア) 荘園整理令 (イ) 偽籍 (ウ) 墾田永年私財法 (エ) 口分田 (筑波大学2020年度)
9世紀から10世紀には税収入の維持がむずかしくなり,財源確保に様々な方法がとられた。10世紀初めの変化に留意しながら,9世紀から10世紀の財源確保や有力農民に対する課税の方法の変遷を説明せよ。(京都大学2014年度)
律令国家の土地制度の推移と課税方法の変遷は、完全にリンクしている。
基本的な流れは次の通りである。
【8世紀】
1 律令国家は、公地公民制のもと民衆を戸籍に登録して、戸ごとに口分田を班給する。
租税は、口分田の広さに応じた地代である租、計帳に基づく人頭税の調・庸・雑徭を徴税
↓
2 人口増加による口分田不足→開墾奨励→百万町歩の開墾計画、三世一身法
↓
3 墾田永年私財法→開墾した土地の永年私有を保障→公地公民の原則が崩れる
↓
4 貴族・寺院による私有地拡大→初期荘園(有力農民の協力を得て耕作)
↓
【9世紀】
5 農民の貧富の拡大→偽籍の横行→班田収授の実施困難に
↓
6 公営田(大宰府管内)・官田(畿内)という有力農民を利用した直営方式の採用
↓
7 院宮王臣家(天皇と親密な関係にある皇族や貴族)が、私的に多くの土地を集積して、国家財政を圧迫
↓
【10世紀】
8 延喜の荘園整理令を出して、違法な土地所有を禁じ、班田を命じた
↓
しかし、効果なく
↓
9 戸籍・計帳に基づいて租・調・庸を徴税して財政を維持は不可能に
↓
そのため中央集権制度から、地方官である国司への大幅な権限委譲
↓
10 任国に赴任する国司の最上級者に、大きな権限と責任を負わせる
↓
11 受領は、課税対象の田地を名という徴税単位にわけ、田堵に耕作を請負わせた
↓
12 受領が土地を基礎に負名から地代を徴税する体制になった
教科書(『詳説日本史』(山川))には「租・調・庸や公出挙の利稲の系譜を引く税である官物と、雑徭に由来し本来力役である臨時雑役を課すようになった」と書かれている。
この「租・調・庸や公出挙の利稲の系譜を引く税である官物」というが、実際に納めるのは稲や布などである。本来、租は地代としての稲であり、庸は人頭税としての布である。
しかし、戸籍・計帳で民衆を把握することができないから、土地の広さに応じて、「この広さの土地からは、○○の布を税として納める」と基準を定めて、庸布に相当する布を徴収した。「尾張国郡司百姓等解」は、「この基準を大幅に超えて藤原元命は税を取り立てた」と訴えているのである。
<野澤の解答例>
律令国家は民衆を戸籍に登録し、戸単位で口分田を班給して租税を徴収した。人口増加による口分田不足を補い、税の増収をはかるため三世一身法を発し、次いで墾田永年私財法を出して、開墾した田地の永年私有を保障した。この政策は貴族や寺院などによる私有地拡大を進め、初期荘園がつくられた。農民間の貧富の差が拡大すると偽籍が増え、班田収授の実施は困難になった。政府は、有力農民を利用した公営田や官田という直営方式を採用して財源の確保に努めたが、皇族や貴族は私的に多くの土地を集積し、国家財政を圧迫した。そのため延喜の荘園整理令を出して、違法な土地所有を禁じたり、班田を命じたりしたが、戸籍・計帳をもとに国家財源を維持するのは不可能となっていた。そこで受領に強い権限と責任を負わせ、課税対象となる田地を名という徴税単位に分けて、田堵に耕作を請け負わせた。これにより土地を基礎に受領が負名から地代を徴税する体制ができた。(筑波大学2020年度 400字)
9世紀になると偽籍が増え、班田収授の実施は困難になった。政府は、有力農民を利用した公営田や官田という直営方式を採用して財源の確保に努めたが、有力者による土地集積もあり、10世紀には戸籍・計帳をもとに国家財源を維持するのは不可能となった。政府は、受領に強い権限と責任を負わせ、課税対象の田地を徴税単位である名に分けて田堵に耕作を請け負わせた。こうして受領が土地を基礎に負名から地代を徴税するようになった。(京都大学2014年度 200字)
2021.2.8