入試問題で確認するテーマ史

江戸初期から正徳の政治までの日朝関係

 次の史料は、新井白石の『折たく柴の記』中の記述である。下線部①から③の語を説明しながら、慶長十二年(1607)の朝鮮使節の来訪から、同書に下記の内容が記されるまでの近世の日朝関係の推移と、白石によってこのような変更がなされた理由について論述せよ。

これは、両国の好(よしみ)修められし初よりして、彼国の書には、日本国王としるしまゐらす。これは鎌倉京の代々より、外国の人は、我国天子の御事をば、日本天皇と申し、武家の御事をば、日本国王と申せし例によれる也。しかるを、①寛永の比(ころ)に至て、②日本国大君としるしまゐらすべき由を仰つかはされしより、此事そののちの例とはなりたり。(略)されど、大君といふは、彼国にして、その臣子を授くる所の職号にこそあれ。其号を以て称じ申すべき由を仰つかはされしは、彼国の官職をうけ給ふの嫌〔きらい〕ありて、また大君は、天子の異称なる由、異朝の書にはみえたり。さらばまた我朝天子の御事にも疑あれば、たゞもとのごとくに日本国王としるしまゐらすべき事を申すべき由、③対馬守に仰下されぬ。(400字)(筑波大学2015年度)


 基本的な流れは教科書のとおりである。『詳説日本史』(山川)には、

【朝鮮と琉球・蝦夷地】の項に「徳川家康は朝鮮との講和を実現し,1609(慶長14)年,対馬藩主宗氏は朝鮮とのあいだに己酉約条を結んだ。この条約は近世日本と朝鮮との関係の基本となり,釜山に倭館が設置され,宗氏は朝鮮外交上の特権的な地位を認められた。朝鮮からは前後12回の使節が来日し,4回目からは通信使と呼ばれた。来日の名目は新将軍就任の慶賀が過半をこえた。」と記されている。
 さらに注として「宗氏の特権とは対朝鮮貿易を独占することである。その貿易利潤を,宗氏は家臣に分与することで主従関係を結んだ。対馬は耕地にめぐまれなかったので,貿易利潤が知行のかわりになった。 」
 「1回の朝鮮使節の人数は約300〜500人であった。初期の3回は,文禄・慶長の役の朝鮮人捕虜の返還を目的とした使節(回答兼刷還使)で,1回目は1240人,2回目は321人,3回目は146人の捕虜が返還された。4回目以降の通信使とは信を通じる修好を目的とした使節の意味である。」と書かれている。
 そして、【正徳の政治】の項に「朝鮮の通信使が家宣の将軍就任の慶賀を目的に派遣された際,これまでの使節待遇が丁重にすぎたとして簡素にし,さらに朝鮮から日本宛の国書にそれまで「日本国大君殿下」と記されていたのを「日本国王」と改めさせ、一国を代表する権力者としての将軍の地位を明確にした。」とあり、注に「「大君」が「国王」より低い意味をもつことをきらったもので,8代将軍徳川吉宗以降は祖法尊重の方針から,もとの「大君」を記させた。」と書かれている。これらをそのままつないだだけで、

 徳川家康は豊臣政権とは異なり朝鮮との講和を実現し、対馬の宗氏は朝鮮との間に己酉約条を結んだ。釜山に倭館が設置され、宗氏は朝鮮外交上の特権的な地位を認められた。朝鮮からは、秀吉の朝鮮侵略の朝鮮人捕虜の返還を目的とした使節が派遣された。この使節は朝鮮通信使と呼ばれるようになり、新将軍就任の慶賀に来日した。新井白石は、これまでの使節待遇が丁重にすぎたとして簡素にし,さらに朝鮮から日本宛の国書にそれまで「日本国大君殿下」と記されていたのを、「大君」が「国王」より低い意味をもつとして嫌い、「日本国王」と改めさせて、一国を代表する権力者としての将軍の地位を明確にした。

という答案ができる。下線部を施されている②日本国大君と③対馬守も記されている。しかし、分からないのは①の寛永の比である。教学社の赤本は「鎖国が形成された時期」ととらえていたが、鎖国の形成は朝鮮とのつながりがなく、不自然である。『詳説日本史』には、鎖国の目的を「キリスト教の禁教政策」と「貿易の利益を独占するため」と述べているが、本来の目的は「キリスト教の禁教政策」である。実際、日本が海外に向けて開いていた窓口は、長崎(オランダ・中国)、対馬(朝鮮)、鹿児島(琉球王国)、松前藩(アイヌ)の4つあったが、幕府が貿易を統制していたのは長崎のみである。
 では、「寛永の比」は何か。実は『詳説日本史』には書かれている。「歴史へのアプローチ」というコーナーがあり、そこに「朝鮮通信使」が取り上げられている。そのなかに、次の記載がある。

 最初の3回の回答兼刷還使は、朝鮮との交易をのぞむ宗氏の老臣柳川氏が作成した偽の国書を先に送り日本を低位にみせ、朝鮮がこれに回答したものであったことが発覚した(1635年)。以後、幕府は対馬府中(厳原)の以酊庵(いていあん)に京都五山の禅僧を輪番で滞在させ、外交文書を直接に管理させて、外交権の掌握をはかった。

 この事件は「柳川一件」と呼ばれる。これが①寛永の比である。
 『詳説日本史』は、「発覚した」としているが、実際には、対馬藩の家老であった柳川調興(しげおき)が、主家である宗義成から独立して旗本になることをはかって、対馬藩による国書改竄の事実を幕府に対して訴え出た事件であった。調興は江戸で生まれ育ち、慶長18(1613)年に幼くして家督を相続した。徳川家康、秀忠の小姓に任ぜられるなど、幕府直臣であるかのような待遇にあり、自身もその意を強くしていた。
 普通に考えれば、改竄した国書を作成したのが柳川調興であったとしても、それによって利益を得ていた藩主宗義成の責任は逃れがたく、しかも調興には幕閣有力者からの支持もあった。さらに「日朝貿易の実権を幕府は直接握りたいであろう」との推測から、柳川は勝算があると考えていた。一方、仙台藩主伊達政宗など、宗義成を支持する大名もいた。彼らは、家臣が主君を乗り越える下剋上の時代が完全に終ったことを印象付けるために、この事件を利用する方向で動いた。
 1635(寛永12)年、3代将軍家光の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われた。場所は江戸城大広間である。大広間には江戸にいる1000石以上の旗本と大名が総て登城しており、その前での公開対決であった。
 結果は、宗義成は無罪、柳川調興は津軽に流罪とされた。さらに以酊庵の庵主であった規伯玄方(きはくげんぼう)も、国書改竄に関わったとして南部に流された。普通なら藩主無罪は考えられない判決であるが、日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策との幕府の判断であった。
 しかし、対朝鮮外交に不可欠な漢文に精通し、朝鮮側との人脈を有していた柳川調興と規伯玄方を失った宗氏に、それまでのように外交を行う力はなかった。そのため宗義成は幕府に援助を求めざるを得なかった。ここから後は、『詳説日本史」に書かれているとおり、幕府は京都五山の禅僧の中から漢文に通じた者を以酊庵に輪番制によって派遣して、外交文書の作成・管理などを扱わせて、対朝鮮貿易を厳しい管理下に置いた。そして、国書に記す将軍の外交称号を「日本国王」から「日本国大君」に改めたのである。

 つまり、将軍の外交称号は、

 日明貿易を開始した足利義満以来「日本国王」柳川一件で「日本国大君」→新井白石「日本国王」8代吉宗「日本国大君」

のように変わったのである。

 
<野澤の解答例>
 徳川家康は豊臣政権とは異なり朝鮮との講和を実現し、対馬の宗氏は朝鮮との間に己酉約条を結んだ。釜山に倭館が設置され、宗氏は朝鮮外交上の特権的な地位を認められた。朝鮮からは、秀吉の朝鮮侵略の朝鮮人捕虜の返還を目的とした使節が派遣された。この使節は朝鮮通信使と呼ばれるようになり、新将軍就任の慶賀に来日した。当初、朝鮮から日本宛ての国書には将軍の称号として「日本国王」と記されていたが、3代将軍徳川家光の寛永年間に、対馬による偽の国書が発覚した柳川一件を機に、幕府は外交権の掌握をはかるとともに、称号を「日本国大君」に改めた。新井白石は、大君は朝鮮においては国王の子に対して用いる称号であり、朝鮮国王より下になることから、これを改めてもとの「日本国王」として、一国を代表する権力者としての将軍の地位を明確にしようとした。あわせて経費節減のため、これまでの通信使への待遇が丁重に過ぎたとして簡素化をはかった。(400字)


しかし、柳川一件を知っている受験生は、まずいないと思う。少なくとも2015年度の問題を作成した筑波大学の先生は、高校の教科書を読んでなかったと、ぼくは思う。
  

 2021.2.5

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