入試問題で確認するテーマ史

律令国家はいつ終焉したのか

 古代律令国家の成立から終焉に至る過程を、その法典編纂の歴史に即して述べよ。(200字)(京都大学2003年度)


 律令国家の仕組みがほぼ整ったのは、大宝律令の制定だというのはわかる。しかし、いつ終わったかを考えたことがある受験生は少ないのではないか。教科書にも「〇〇により律令国家は終焉を迎えた」という記述はない。これは、「律令国家とは何か」が理解できているかが問われる問題だった。
 では、律令国家とは何か。実は、教科書に書かれている。例えば『詳説日本史』には、

【白鳳文化】の項に「中央集権的国家組織の形成に応じて、中央の官吏だけでなく地方豪族にも漢字文化と儒教思想の受容が進んだ。」
【大宝律令と官僚制】の項に「大宝律令が完成し、律令制度による政治の仕組みもほぼ整った。律は今日の刑法に当たり、令は行政組織・官吏の勤務規定や人民の租税・労役などの規定である。」
【民衆の負担】の項に「律令国家では、民衆は戸主を代表者とする戸に所属する形で戸籍・計帳に登録され、(略)民衆には租・調・庸・雑徭などの負担が課せられた。」
【受領と負名】の項に「戸籍に記載された成人男性を中心に課税する律令体制の原則は崩れ、土地を基礎に受領が負名から徴税する体制ができていった。」

と記されている。
 ここから、律令国家とは「能力で選ばれた官僚が、法に基づいて中央集権政治を行う国家」であり、その財源は「戸籍・計帳にもとづいて民衆に課せられた租・調・庸・雑徭などの税」であることがわかる。租は公地公民のもとで班給された口分田に応じて負担する地代であり、調・庸・雑徭は、計帳に基づく人頭税である。
 ということは、公地公民制が崩れ、戸籍・計帳に基づいて民衆から徴税することが不可能になった時期、そして律令制を維持するための法典編纂も行われなくなった時期をもって、律令国家の終焉だということができる。
 そのことに気づいたら、設問文の「法典編纂の歴史に即して述べよ」がヒントになっていることがわかる。
 戸籍・計帳に基づく徴税が行われなくなったのは、『詳説日本史』に
「10世紀の初めは、律令体制のいきづまりがはっきりしてきた時代であった。政府は、902(延喜2)年に出した法令で、違法な土地所有を禁じたり(延喜の荘園整理令)、班田を命じたりして、令制の再建をめざした。しかし、もはや戸籍・計帳の制度は崩れ、班田収授も実施できなくなっていたので、租や調・庸を取り立てて、諸国や国家の財政を維持することはできなくなっていた。」と記されているとおりである。

 以上のことから、7世紀後半、近江令が編纂され、庚午年籍が作成された天智天皇の時代、飛鳥浄御原令が編纂され、庚寅年籍がつくられた天武・持統天皇の時代をとおして中央集権国家の形成が進んだ。そして、8世紀の大宝律令・養老律令の制定で律令国家は成立した。9世紀、公地公民制が動揺すると、律令国家の再編が図られ、法典である格式が編纂された。しかし10世紀には、戸籍・計帳に基づいて民衆から租税を徴収することは不可能となり、政府は、中央集権から地方行政を担う国司に大きな権限と責任を負わせて、徴税を請け負わせる形に転換した。国司(受領)は、民衆を把握することはできなくても土地を把握することはできるので、田地を名という徴税単位にわけ、田堵に耕作と徴税を請け負わせた。この時点で律令制は終焉したといえる。
 
<野澤の解答例>
 7世紀後半、近江令・飛鳥浄御原令が編纂されて天皇中心の中央集権国家の形成が進み、8世紀の大宝律令・養老律令の制定により、公地公民制のもと戸籍・計帳に基づいて人民に租税を課す律令国家の仕組みが成立した。公地公民制が動揺すると、律令国家の再建が図られ、9世紀には格や式を整理した弘仁格式や貞観格式が編纂された。しかし10世紀に公地公民制が崩壊すると、延喜格式を最後に法典の編纂も終わり、律令国家は終焉した。(200字)

 では、律令国家が10世紀に終焉を迎えたのであれば、11世紀半ばに院政が始まり、荘園公領制という中世国家が始まるまでの時期は、何なのだということになる。
 受領に大きな権限と責任を負わせるという、地方への大幅な統治委任が行われ、土地を基礎に受領が負名から地代を徴収した時期は、王朝国家体制と呼ばれている。
 

 2021.2.5


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