2023年2月11日実施第6期第5講 
 
   今回の会場は、地歴・公民教室でした。県外を含めて、会場には中学3年生から81歳まで年齢差66歳の方々に来ていただきました。
 
   オンラインでの参加者の中には、小学校6年生とそのお母さまの姿もありました。
 
   会場は、授業を行っている教室だったので、電子黒板です。解く時間は、あと3分6秒です。 
    教科書には、第1次大隈内閣は「最初の政党内閣」、原敬内閣は「陸軍・海軍・外務大臣以外の閣僚を立憲政友会員で占めた最初の本格的政党内閣」と記されています。でも、大隈内閣も陸軍・海軍大臣以外は憲政党員で占めていますから、これは違いの理由になりません。
 「大隈重信は衆議院に議席がなかったが、原敬は自身が衆議院議員であったことが違う」といわれることもあります。しかし、Bの問題に原敬内閣は、「のちの『憲政の常道』の慣行につながる,本格的な政党内閣」と記されていますが、『憲政の常道』の時代の首相で衆議院に議席があったのは二人だけです。ですから、これも理由になりません。
 では、この「本格的」とは何を指しているのか?それが今日のテーマです。
   品川は選挙干渉の責任をとらされて辞任と言われることがありましが、実際には松方内閣の体たらくに嫌気がさして辞めたようです。
 陸奥の辞任も選挙干渉への抗議ではなく、伊藤の新党に参加しようとしたというのが正しいと思います。
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    そもそも陸奥が入閣したのも議会への影響力を期待されたからでした。
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   西園寺公望は立憲政友会の総裁でしたが、政友会党員の閣僚は、首相の西園寺を含めて3人ですから、政党内閣とはいえません。
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   このような事情によって、斎藤実内閣は成立したと考えられます。
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